根崎村は銭亀沢の西部、松倉川河口部地域で、はじめ下湯川村に属し、明治一六(一八八三)年に分離し、村として成立した。下湯川村字根崎、弥右衛門川、寒坂、土場、高松にあたる地域である。
志苔村と根崎村の村界である瀬戸川から宮の川を越え、弥右衛門川あたりまでの字根崎浜の海岸沿いに宅地、海産干場、耕地が同じ間口で並ぶ。そして、弥右衛門川から松倉川までの間では宅地がまばらとなり、かなり大きな面積の海産干場が拡っている。
根崎村の宅地は字根崎浜に集中し、その等級は低く、すべて三等から五等である。
また、耕地は字根崎野、高松、土場、根崎浜に三四筆あり、松倉川に近い高松、土場の耕地は比較的等級が高いが、根崎野、根崎浜の耕地は五等以下のものばかりである。
すでにみたように、「函館支庁管内町村誌」によれば根崎村居住者は志苔村からの分家が多い。このことは宅地、海産干場などの調書にみえる土地の所有者名からも確認することができる。志苔村の宅地、海産干場はほぼ村の中央から開かれ始め、明治期に入ると銭亀沢村、根崎村との境へと海岸線を埋めつくす。その後の分家などは根崎村に土地を所有するようになっていったのであろう。
また、昆布場とは違い、地曳網などによる鰯漁は砂浜の海岸に大きな面積の海産干場を必要とするため、志苔村居住者が根崎村の浜に鰯漁場を求めたものと思われる。