また、松前郡の隣の福島郡宮歌村、白符村でも清部村同様海産干場の一村持ちを願い出るが、結果的には個人所有を受け入れる。しかし、宮歌、白符両村の場合は、銭亀沢、松前地域とは違い、漁家のほとんどが海産干場を所有するのではなく、ある一部の者だけがその所有者となった。海産干場を所有することになったのは経営規模の大きい漁家や土地などを多く持つ者ばかりではなく、どちらかというと比較的古くからの居住者と思われる者やその同姓グループの者である。宮歌村の場合、漁家戸数三五のうち海産干場所有者はわずか四戸である。白符村では四一戸に対し一六戸(一八筆)である。漁業を第一の産業とする村において海産干場の私有化を機にこれを所有することになった漁家のみがこの後干場を使用したのであろうか。ここでも清部村と同じように地租創定のためやむなく海産干場の所有者を決めたものの、実際は従来どおり村が干場の管理をおこなっていたのではなかろうか。
一方、白符村においては同姓グループに海産干場所有者が一名ずついることから、もしこのグループごとに共同で漁をおこなっていたとするならば、干場の私有化を機にそれぞれのグループの使用する場所が定まったとも考えることができよう。この地域では、網元を中心とした親族組織が基盤となり労働組織が形成されることが多く、網元以外は家族員を中心に漁がおこなわれるということである(「渡島管内福島町白符の社会と民俗」『北海道を探る』15)。
また、ここでも松前と同様に海産干場の私有化により一部の漁家が更に大きく発展していく面がみられた(宮崎美恵子「北海道の地租創定関係文書とその利用について」『北海道立文書館研究紀要』第六号)。