日露戦争の勝利によって、サハリン島は北緯五〇度以南が日本領となった。従来はあくまでも、ロシアという外国領への出漁であったのが、国内漁業となったのである。
戦前まで出漁に際しては、監督官庁である日本外務省の認可を得て、現地ではロシアの諸法律に従い、税金を収めるなどという手続きが必要であった。当時、これらの人びとは樺太漁業家と呼ばれ、函館に根拠地をおき、長年にわたって経営を続けているものが大半であった。
では戦争後はどうなったのか、簡単に推移を述べておこう。まず、旧来の漁業者の漁場には優先権が与えられ、旧ロシア人漁場も含めたそのほかの漁場は、入札によって交付されることになったのである。樺太漁業の将来性は高く評価されていたので、これまで漁場経営などに無縁だった人たちも、投機を目的に入札に参加するなど、異常なまでに価格が高騰した漁場もあった。それは主に、旧ロシア人所有の優良漁場であった。
そしてこれら漁場では、資源保護という見地から建網漁業方式に限定され(三大魚族といわれた鮭鱒鰊の捕獲を目的にする)、漁業料を徴収する免許制度が取り入れられることになった。さらにこの漁業権は財産権として法律上の保証が与えられることになったのである(鈴木太代治『樺太水産団体大観』昭和十年)。このような状況の中で、銭亀沢とのかかわりがその後どうなったのかをみてみることにしよう。