新聞に報道されたロシア人旧教徒

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 大正の始めころから、銭亀沢村にロシア人たちの姿がみられるようになった。それはいわゆる旧教を信じる人びとで、元町の正教会の信者ではなかった。函館や銭亀沢に旧教徒たちが暮らしたことは『地域史研究 はこだて』一七号の中村喜和論文(「銭亀沢にユートピアを求めたロシア人たち」)に詳しいが、ここでは、樺太との関連を中心に述べたいと思う。
 大正六年十一月二十五日付けの「函館新聞」に「聟を望む 穴居住ひのロスケ親子」という興味深い見出しの記事がある。内容を要約してみると次のような話である。

図1・5・4 志海苔近郊図

  二、三年前まで新川町付近に住んでいたロシア人が、今は志苔のあたりで、ほとんど穴居のような住まいをしている。老夫婦や若い娘が荷馬車に乗って出てくることがある。志苔の宇賀浦小学校付近で畑を借り、西瓜などを作っている。牛も飼って乳をしぼっている。若い娘はまじめな日本人を聟にしたいという噂だ。
 
 ここでいっているのは、宇賀小学校のことであろう。現在すでに統廃合でこの学校はないが、概略図(図1・5・4)でいえば、★印がそうである。なおほかの記事では、その住所が団助沢とも出てくるが、これは通称らしく、当時の地名では「笹流」といった。聞き取りなどから判断すれば、場所は斜線のあたりである。新聞にはさらに、このロシア人たちについての続報が掲載され、詳しいことがわかってくる(大正七年十月四日、同十一月二十六日付「函新」)。
 
  住んでいるのは志苔の裏山で、修道院を右にみて団助沢に接し、宇賀の浦に臨んだ丘の畠にいるという。生まれは「露西亜の土耳其」だが、流れ流れて日本の函館にきた。巧みな日本語で、農作物を売りに馬車で町に出る。娘の名前はナスちゃん(ナスチャという記事もある)。このナスちゃんが一万円の持参金付きで、花婿を募集しているのだという。その婿探しに一役買ったのが、樺太に漁に行く人で、その漁場の近くに住むロシア人村長の三男が候補者であった。ちなみに二人の兄は日本人を妻にしているのだという。そして樺太からわざわざその村長と息子がやってきたのである。ところが、ナスちゃん一家の信仰する「旧教」の教えと花婿候補の一家の教えには雲泥の差があり、話は難行しているというのである。
 
 さて、樺太に出漁するというこの月下氷人こそは、中宮亀吉なのであった。