樺太のミケタ一家のこと

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 しかしこの団助沢での結婚生活もつかのまであった。というのは、ナスちゃん夫婦とその家族が、樺太へ移住することになったからである。「聟さんの土地の樺太で暮らした方が、シベリヤ気分がするだらう」(大正八年四月二日付「函新」)ということで、一家は亜庭湾の漁場へむかう志苔の漁船に乗り込んで、大正八年四月三日に旅立つことになった(同前)。亜庭湾へむかうこの漁船はやはり、中宮家のものに違いない。
 さて、これからあとのミケタ一家の様子は、樺太庁が昭和二年九月に報告した「南樺太居住外国人ノ状況」(市立函館図書館蔵)という資料で知ることができる。
 これによるとミケタと一緒に志海苔を訪ねた父親は、グリゴリー・エヒモフといい、その出生地は「波蘭土国ノブゴロツド県スタロルスキー郡ドルジュノフスキー村」であった。一八九九年に殺人により流刑に処せられ、当地に渡来したと書かれている。荒栗では農牧業を営み相当の資産があったが、大正十四年六月に病気で亡くなった。五男二女をもうけ、皆それぞれに家庭をもっていた。ミケタは、函館の新聞では三男と紹介されていたが、実際は四男で次のように記述されている。
 
  四男 ミケタ・グリゴリエビッチ・エヒモフ(当三十三年)ハ長浜郡長浜村大字荒栗字野月ニ居住シ之亦結婚シテ一家ヲ創立シ一男三女ヲ挙ク
 
 逆算すれば、ミケタがナスちゃんと結婚したのは二四、五歳のころであったのだ。そして二人の間には四人の子どもが生まれていたのである。
 エヒモフ一家の信仰についてだが、これは『樺太時報』十月号(昭和十五年)と『樺太』十一月号(昭和十五年)に掲載された記事によって、旧教徒であることがわかる。
 ここに登場しているのは、グリゴリー・エヒモフの長男の息子、すなわちミケタの甥にあたる人物だが、やはり荒栗で牧場を営んでいた。ここでは詳しく紹介しないが、旧教徒独特の生活スタイルを守り、同じ宗教の者としか結婚せず、他の白系ロシア人からは「…あの連中は古くさい宗教を後生大事に信じこんで、一切の文化生活を拒否する…」といわれていたのである。
 なお、サハリンで出版されたセルゲイ・フェドルチュク著『樺太に於けるロシア人』(一九九六)に、エヒモフ一家の記事がある。それによれば、ナスちゃんことアナスターシアは、ボルガ川中流域に生まれ、函館に来たのは大正三年、一四、五歳の時で、その四年後にミケタと結婚したのであった。第二世界大戦後ソ連国籍を取ったが、ミケタは日本のスパイとして逮捕されるなど、これらロシア人の最後は、いずれも悲しい結末をむかえたようである。