銭亀沢のロシア人たちの顛末

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 ナスちゃんたちが樺太に去ったあとも、銭亀沢にはまだ旧教徒が残っていたし、それに新たにやってくる人たちもいた。大正十三年では「団助沢に農作生活をしている露人は現在子供を合わせて二四名に達している」(同年九月二十九日付「函日」)とある。今でもそのロシア人たちのことを覚えている人がいて、話を聞くことができた。断片的だがここに紹介しておこう。
 男は赤い上着を着て、女はスカーフをかぶっていた。日本ではみかけないような大きく立派な馬を持っていた。馬車追いは、男も女もやっていた。畑ではスイカやうりを作って、それを馬車で売り歩いていた。パンを焼く大きなカマドもあった。黒パンはよく銭亀沢の漁港に売りに来ていた。ロシア人に雇われて、畑を手伝った人もいるし、ロシア人の子どもたちと一緒に遊んだ人もいたという。
 彼らの家は、冬に雪が積もるとうずもれてしまい、その上をわざとどしどし歩いて、よく怒られたという人もいる。また、立派な丸太の家を建てていたロシア人もいたという。丸太の間に詰め物をして、冬でもとても暖かいのだという。この家はロシア人が出ていったあと、付近の日本人が買って住んでいたというが、今では全く痕跡もない。
 ところで、これら旧教徒はなぜ、一時とはいえ、銭亀沢をすみかに選んだのだろうか。その大きな理由の一つに水の問題があったのだと思われる。中宮家の脇には、沢から出る小さな流れがある。普段の水量はさほどではないが、時には増水してこわいこともあるのだという。この川は昔から涸れたことはなく、非常に清らかな水で、最近まで、まさにこの近隣の人びとの暮らしを支えてきたそうだ。飲料水であり、洗濯や入浴などありとあらゆることに使用する、「命の水」であった。
 旧教徒にとっても水は宗教上、大きな問題であり、天然の清らかな水だけしか口にできないのだという。この沢から湧き出る水が、銭亀沢にロシア人旧教徒を引き付けた一因であろう。
 こうした素朴なロシア人の暮らしも長くは続かなかった。大正十五年の「函館新聞」には、「団助沢の露人、全部居なくなる」(同年二月十一日付)という見出しの記事がのっている。かれらは本州へ渡ったり、あるいは樺太へ行くのだという。
 その大きな理由は、かれらの生業である農牧業を営む、安い土地がないからということである。経済不況という時代背景もあり、日本のような狭い国では、彼らのような生活は無理だったのだろう。