昭和十一年、大間鉄道は国鉄大間線として第一工区の田名部、大畑間約一八キロメートルが着工、昭和十四年に開通した。その後昭和十六年完成をめざして、第二工区の大畑、大間間約二三キロメートルが着工されたが、太平洋戦争開始により完成が一年延長され、この間関係町村長と函館市長らによる速成請願も提出されたが、ついに昭和十八年十二月に鉄道建設審議会より工事の中止が発令された(『大間町史』)。この時すでに土工は大畑から桑畑までの約一七キロメートルが完成していたという(『国鉄の車両③東北線Ⅰ』)。当時の大間鉄道に関わる新聞記事に「軍事上」という言葉が多く見られることから、軍用鉄道の色を濃くしていった大間鉄道であるだけに、敗戦とともに建設の再開は無く、戦後一時再開の構想が浮上したものの実現に至らず、大間までは夢の鉄道となったのである。
その後、大間線は大畑線と名称が変更、国鉄第一次廃止対象線の特定地方交通線として挙げられ、昭和六十年七月に地元民間バス会社の下北交通が運営を継承し大畑線として営業されている。