命題は「貧困」からの脱出

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 高度成長期にあっても銭亀沢の命題は、「漁家の貧困こそが、この村の漁業の発展、村の近代化、漁民の意識改革にとって、決定的な桎梏となっている」(『渡島東部地域沿岸漁業構造改善計画書』)という観点からする「貧困」からの脱出にあった。その結果は、漁村からの脱却であったといえよう。市村合併でそれまでの地域集団としての「部落会」は「町会」に変わり行政末端機能集団に移行していく。
 このような合併にともなう漁村の変化は、都市化による社会問題も内包することになる。昭和五十一年に銭亀沢地区子供を守る会連絡協議会が策定した「家庭のともしび」と名づけられた住民憲章に、「のどかな漁村地帯であった同地区も最近は都市化の波が次第に強く押し寄せ、ともすればシンナー遊びや喫煙など“都市部の非行”に浸食される懸念が関係者の間で強まっていた」(昭和五十一年十月二十日付「道新」)と述べられているのはその証左でもある(表1・7・10参照)。また、「親と子という血縁で結ばれた家庭、社会的なかかわりの強い地域社会、そして教育を目的とする学校が、それぞれのあるべき姿の中で、それぞれの機能を生かして子どもに働きかけるとき、健全な子どもが育たぬはずはありません」(函館市銭亀沢地区子供を守る会連絡協議会『家庭のともしび-解説のしおり-』昭和五十一年)との教育長の言葉は、その構造に変化が現れ始めていることを示唆している。
 町会活動においても、「私達市民の生活環境のなかで、公害問題、交通事故、青少年非行化、犯罪の多様化など、住みよい環境づくりを阻害する諸問題が、益々拡大する傾向」にある社会に対し、「地域の福祉をどう高めるか、住民の連帯感をどう深めるか、また多様化する地域社会の諸問題をどのように解決するかが極めて大切な課題」(函館市町会連合会『第六回函館市町会活動研究大会報告』昭和四十六年)として共有されているのである。
 市村合併以前は、簡易水道の管理や、秋季おそうじ検査(昭和三十八年九月十九日付「道新」)など協同でする仕事が多かった。このような仕事が、水道敷設や特別清掃地区(地方自治体が責任をもって汚物の収集をしなければならない代わり、住民は手数料の支払いを義務づけられる)に指定を受ける(昭和四十二年六月二十九日付「道新」)ことによって労働が軽減された反面、各自の負担金が増えることにもなった。しかし、住民間の連帯はこのような労働の中に意識として定着していたのではないかと推測される。
 このような生活環境の変化によって、町内会は高度成長期の過程で大きく変容してきた。住民の職住分離が進み居住地がもつ意味が低下した。さらに、居住者の流動性が高まり、住民間の生活構造や生活意識の異質性も強まった。そのため、地域的な凝集性は低下した。逆に生活圏の広域化が進み、かつてのように町内総出の行事がだんだん成立しなくなってきた(田中重好「町内会の歴史と分析視角」『町内会と地域集団』一九九〇)。
 「貧困」の意識をひき起したのは、高度成長期の価値観であったのかもしれない。合併以前には地域生活を支えるシステムがしっかりあったことも確認しておきたい。不思議に、住民からは苦しい生活をともにした先代、先々代の悪口を聞くことがないのに、現在の暮らしの中で、隣の人とほとんど口を聞かないことや、親戚づきあいのなさに疑問を口にすることが多い。住民の生活の豊さを認めながらも、その意識の葛藤を感じるのである。

表1・7・10 町別補導少年数集計(昭和44年)
『第2回函館市青少年健全育成総合研究大会』資料より作成