先の漁業組合は、明治十九年の漁業組合準則(農商務省令第七号)が公布されたことによって改組された。この準則によれば、漁業組合は、漁業種類別に作る第一類の組合と、沿海地区で各種漁業を重複的におこなっている第二類の組合に分けられたが、営む営業種類が同じで、漁場が連接する第二類に属する沿海地区の組合は、一つの組合に統合されることになった。このため昆布、鰯漁業を営んできた亀田郡内の漁業組合は、郡一本に統合されたものとみられるが、この点は定かではない。
なお漁業組合準則による漁業組合は、一町村あるいは数町村を単位に設立された。各漁業組合は、それぞれ旧来の漁場利用の慣行を基礎に漁場区域を明確に定め、同時に組合内部では、規約を設けて自主的な漁場管理をおこない、地先海面の利用秩序の維持を図ろうとしたのである。
この地域の漁業組合がどのような規約を定めていたのか、その内容は分からない。しかし、後の時代の記録によると、昆布は、「村民生活上重大関係ヲ有スル主要産物」であるため、字(漁業組合の区域)を境に漁場を定め、「区域外ノ者及他村ノ者ハ絶対ニ入会採取スルヲ許サス区域内ノ村民相互ニ確守警戒シ」て、区域内漁民の昆布採取の場を確保していたことや、採取日、採取時間を決めて操業秩序の維持を図る一方、昆布製品の品質保持にも配慮していたことなどがうかがわれるのである(昭和九年『村勢一般』)。
この漁業組合は、明治二十年代に入ると、「営業ノ弊害ヲ矯正シテ利益ヲ増進スル」ための共同事業(漁業技術の改善、水産製品の改良、共同販売など)をおこなうようになり、後の水産組合の前身ともみられる事業体としての機能が付与された。