烏賊釣り一辺倒の村

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 ここで、前出「母船作業員の母村」によって、昭和三十年代初めの村の出稼ぎ事情を述べておく。
 昭和三十一年の銭亀沢村の『村勢要覧』によると、この地域の耕地面積の広狭はさておき、ともかく農業を営む世帯は、昭和三十一年度で一〇九三戸、この内専業農家は九九戸で、これに第一種兼業農家五一戸を加えても一五〇戸に過ぎず、その他の九四三戸は、五反前後の土地を自家菜園的に耕作する第二種兼業農家(主業は漁業)が占めていた。また漁家は八六二戸で、その六五・三パーセントが第二種兼業漁家で、第一種兼業漁家は三四・七パーセント、専業漁家は一戸も存在しない。漁船所有の状況では、村内には九八八隻の漁船があり、その約九〇パーセント、九〇二隻が無動力船で、動力船が八六隻(五トン未満-二九隻と一〇トンから二〇トン-四八隻)である。このように、村の漁業経営は、小規模・零細な沿岸漁業を営む第二種兼業漁家が主体をなしていた。
 昭和三十年の総漁獲金額は、一億三三四九万円で、鯣烏賊(するめいか)が一億一三四一万円(八四・九パーセント)と圧倒的比重をもち、ほかに鰯(一〇・六パーセント)、昆布(三・〇パーセント)の水揚げがあったが、銭亀沢村の漁業は、文字どおり「烏賊釣り一辺倒」といった状態にあった。
 烏賊釣り漁業には一五トンから二〇トンの動力漁船が使用され、これに二〇人前後の釣子が乗り組み、釣子各自が手釣りで烏賊を漁獲した。経営形態は、漁船の所有関係によって個人経営と共同経営があり、共同経営の場合、十数人が漁船を共有し、同時に出資者が乗船して烏賊釣りに従事し、各自の漁獲物をそれぞれ取得した。個人経営の場合、釣子は、大半が地元漁民で、彼らは釣り上げた烏賊の四割を船主に渡し、六割を自己の取り分として持ち帰り、鯣に加工して販売した。
 このように烏賊釣り漁業の配分が、「生烏賊」という現物でおこなわれたのは、当時この地帯における「生烏賊」の市場が極端に狭く、生鮮品として販売する条件が全く存在しなかったことによるもので、漁獲物は、全量鯣に加工され商品化されていた。このため当時の烏賊釣り漁業では、船主、釣子ともに、釣りと加工は一貫作業としておこなわれていた。しかも、鯣加工は全くの手工業的作業で、多数の人手を要したため、漁期間中は、村内の老若男女あらゆる家族労働力が動員されていた。
 ところが、この烏賊釣り漁業は、昭和三十年代に入ると、漁場が道東方面に移動して漁獲は激減した。このため、それまで烏賊釣りに全面的に依存してきた漁家には大きな打撃となったことはいうまでもない。北洋鮭・鱒漁業の再開は、この村の漁民にとっては、全く貴重な就労の場を提供したことになったのである。