銭亀沢は函館近郊の漁村として、津軽海峡の海の恵みとともに生きてきた。この地域の集落は、海岸段丘下の浜沿いに分布し、段丘上に多少の畑が広がるだけで、水田耕作はほとんどおこなわれていなかった。こうした銭亀沢の暮らしを支えたのは、漁業と出稼ぎであった。
現在の漁業は、コンブ養殖が大きな割合を占めているが、以前は天然コンブ、イワシ、イカ漁が重要な漁業であった。また、ニシン場が衰退する昭和二十年代末までは、ニシン場への出稼ぎと、イワシ、コンブ、イカ漁によって、一年の仕事の流れが組み立てられていた。
ニシン場への出稼ぎは、大正時代頃は、やや早く二月、後には三月に出発し、五月ないし六月には帰ってきた。かつては岩内方面のニシン場へ出かけていたというが、現在話を聞くことができるのは戦前に盛んだった樺太(サハリン)方面と、戦後の利尻、礼文方面の事例が中心である。人によっては噴火湾の大謀網などにまわる場合もあるが、遅くても七月の上旬には帰って、七月二十日から始まるコンブ漁の準備にかかった。コンブ漁に従事しない人の中には、カムチャツカ方面のアキアジ(サケ)場やカニ(タラバ)場に行く場合もあったが人数は少なかった。
コンブ漁は十月いっぱいまでだが、十月になるとイワシ漁の準備にかかった。十月中頃から漁が始まり、十一月から十二月までが盛漁期であった。イワシはイワシ粕に加工し、そのまま保管して、年明けから三月頃までかけてイワシ粕の乾燥と出荷をおこなった。それを終えて、またニシン場へ出かけることになった。
また七月から十月にかけてはイカ漁をおこなった。漁の中心は九月からの秋イカ漁であるが、コンブの最盛期には昼はコンブ、夜はイカ漁といった厳しい労働が続いた。
これらの漁とは別に、海岸近くの磯ではアワビ、ウニ、タコなどさまざまな漁獲物を対象にした磯漁を年間を通しておこなった。
また、集落の背後にある海岸段丘上の畑は、女の仕事であった。畑には、ジャガイモをはじめ大豆、トウモロコシ、各種の野菜類が栽培され、一部は販売にまわされたが、多くは自家で消費していた。この畑仕事は、急な斜面を登り降りするきつい仕事であった(同章第五節参照)。
この節では、銭亀沢の漁業、特にイワシ、イカ、コンブ漁を中心に、磯漁、ニシン場への出稼ぎについて、地域の人びとの体験に基づく聞き書きによって構成したい。