第二次世界大戦が始まり、隣組の制度を基礎とする部落会が創設される以前には、各大字単位に評議員会が組織されていた。このような組織は明治時代に創り出されたらしい。その組織と内容について、石崎町を事例としながら、聞き取り(倉部善太郎談)に基づいて紹介する。
銭亀沢村大字石崎は、崎(戦後は崎と崎野の二つに分れた)、石崎、中村、白石、目名松、谷地(戦後は谷地一・二の二つに分れた)の六つの字から形成されていた。各字から二名ずつ計一二名の委員が選出された。石崎評議員会は、委員長一名、評議委員一二名および専任の書記一名から構成されていた。各字単位で、二年ごとに委員の選挙が実施されていた。事務所は、現在の石崎町会集会所(石崎二八三)にあり、老人の書記が常駐していた。
毎月、月銭(つきせん)と呼ばれる会費が地区住民から徴収された。部落会になるまでは、世帯主が納める月銭の額は、評議員会が決めた等級にしたがって、一五銭から五〇銭まで該当する金額を納めることになっていた。各字の評議員が徴収し、会計に納入していた。この会費は、書記の手当、村役場の会議への出席費、交際費、八幡神社の運営などに使用された。
評議員会は、大字にかかわることを決めたり、山林、まきや入会の許可証を住民に出していた。総会は、年に一度、八幡神社で開催され、寄合と呼ばれていた。