森林組合

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 銭亀沢地区の後背地には森林があり、これを管理運営するための団体が、石崎や鶴野などの地区を単位として組織されている。ここでは石崎の場合を紹介してみたい。
 銭亀沢村大字石崎の住民に一一〇〇町歩の森林が北海道庁から払い下げられ、大正二年五月二十二日に石崎植林組合が創設された。二回に分けて、合計八円を納めた一二六名(各世帯から一名)が森林の共有者となり、その組合の成員となった。会費は、財産や収入によって五等級に分けられていた。
 昭和の初期には、財産保有のために、法人の銭亀沢村産業組合実行委員会が作られた。石崎の部落会費を収めている人は自動的にその成員になったが、この組合は短い期間で解散した。その後、石崎の共有森林の管理は、石崎漁業協同組合が、そして昭和十九年からは銭亀沢漁業会石崎実行組合が受け持ち、戦後は、再び石崎漁業協同組合が引き継いだ(前述)。しかし、漁業協同組合組合員と部落会員とは同じではないため、森林を保持管理する団体として昭和二十三年に石崎農業協同組合が組織され、現在に至っている。
 昭和四十一年の函館市との合併により、転入者が地区内に増加してきたことから、規約を作った。現在の成員権は、本家を継ぎかつ町会費を納めた者である。町会費を三年間未納の者は権利を失う。役員は、組合長一名、副組合長一名、理事七名、監事二名であり、町会の役員が兼任している。そして現在では、各世帯が三〇〇〇円ずつ払い、函館森林組合に植林を依頼している。
 昭和三十年代に、家庭で石油が燃料として使われはじめるまで、薪が燃料の中心であった。共有林での薪採りは、世帯別におこない、採った量に比して石崎評議員会の会計に料金を支払っていた。薪は、三尺に切って、縦三寸、横六尺、高さ五尺に積んだため通称「五、六(ごろく)」と呼ばれた。この五、六のかたまり一つは「ひとなた」とも呼ばれ、大正から昭和にかけてひとなた一円くらいであった。標準的な世帯では五なたあれば一年分の燃料となったという。
 鶴野は、昭和七年に石崎村から分村したが、専業農家の多い鶴野と漁家の多い石崎で共有林を分割した。鶴野では、この森林を管理運営するために鶴野愛林組合が昭和七年に設立された。この組合の活動は、植林、自家用の薪炭の確保などであった。この山林については、分村時の人びとないしはその子孫だけが所有権を持っていた。この山林は、昭和四十八年にゴルフ場経営会社に売却したため、現在はシーサイドゴルフ場になっている。