銭亀沢の近代における宗教は、大局的にいえば、神社と寺院を宗教施設として、一つに「近代天皇制」の護持と推進を果たすこと、二つに地域の平安と祖霊供養を施すことを、その主要な任務としていたものとみてよいだろう。
その中にあって、最も身近かで、最も本来的なのは、いうまでもなく、「地域の平安と祖霊供養」である。
銭亀沢の基幹産業は、前浜漁業と出稼ぎ漁業である。この海とともに生きる地域住民にとって、安全操業と大漁は、生活と生命の「死活」に関わる最重大事である。こうした漁業に、生活基盤を求める銭亀沢の住民にとってみれば、どうしても、安全操業と大漁の祈念を施してくれる神社や寺院(例えば、「観音講」など)が身近かな存在となる。それだけに銭亀沢の住民にとっては、「近代天皇制」の中核である「皇室尊崇」よりも、より身近かな安全操業と大漁祈願の方が、優先されていたのかも知れない。
『村勢一般』によると、昭和九年当時の銭亀沢村の総戸数は一二八三戸で、そのうち漁家が約六三パーセントの八一九戸で、しかも一世帯から二名近くのものが出稼ぎ漁業に従事していた(第三章第一節参照)。この海に生きる出稼漁民に、自然はときとして非情な災いをもたらす。漁業中の海難である。予期もしない海難が、村をひとたび襲えば、村をあげての大混乱に陥る。
その悲惨が、昭和十二年四月二十一日、現実のものとなってしまった。「樺太出稼漁民の遭難」である。銭亀沢地区から樺太西海岸本斗へ出稼ぎに行っていた若者一一人ほどが、大風と大潮の犠牲になったのである。その知らせが入った村の様子を、当時銭亀沢高等小学校高等科一年の蔵井フサヱは次のように綴っている。
此の恐しい事が電報によって村人達の耳に入ったのは四月二十二日の昼前後の事であった。(中略)
親類の家へ行けば父母達は泣きながら自分の死なれた子を思ひ出し、
「死ぬ時どんなに苦しんで死んだべなあ、どんなにこっちの事思ひ出して死にたくなかったべな、甘い物も食はねで死んでしまった。本當に可愛想に」と言ひながら情ない声で泣く。その様子を見た私は急に悲しみが胸中にみなぎり、知らない間に目には熱い涙が一ぱいたまって居た。
(『黒岩』第五号、昭和十二年)
船底一枚をはさんで、この世とあの世が接する漁師の生活。このような未曽有の海難に遭えば、その生命もはかなく不帰の人となってしまう。漁師にとって、豊漁ももちろん大事だが、それ以上に、安全な操業が大事である。漁業という自然を相手にした仕事には、どうしても人間の力を超えた何かに頼ることが多くなる。絶対的な神仏に対する期待感であり加護感である。
銭亀沢において、大正九年から昭和初年に、二つの「新宗教」が既存の神社や寺院に加えて受容されたのは、戦時体制もさることながら、漁業の安全操業や大漁への加護・期待を神仏に求めたからではなかろうか。漁業を基幹産業とする銭亀沢には、函館市街以上に、神と仏の宗教世界が必要視されていたのである。