大漁祈願報告の祭りは、大正から昭和戦前期にかけて、出漁の一週間ほど前に、石倉稲荷神社でおこなわれた。その目的は、大漁はもちろん、操業の安全と乗組員の意志統一である。その規模は、親方、漁撈長、船頭を中心に三人から五人程度で、村単位ないしは事業主単位でおこなわれた。
稲荷神社に、供物として、赤飯・油揚げ・魚などを供え、稲荷社(キツネ)なので、その食べ方により漁の豊凶を占った。油揚げがそのままの状態だとすれば、「豊漁」、部分的にかじられていると「凶」というように。赤飯の場合も同様に占った。
漁が終了すると、「あごわかれ」と称する漁の報告祭をおこなう。大漁の際には、村民すべてに、切りもちの「しるこ」を配った。極端な不漁の場合には、報告祭はとりやめられることもあった。
また、新たに造船した時には、神主に無事の航行を祈祷依頼する臨時祭を執行する。祈祷ののち、事業主と船頭および若者頭が、新造船を祝って、参列者に「もち」「お金」を投じる。新造の船おろしは、「仏滅」を避けて「大安」に決行。その際、大漁旗の寄贈の披露も同時におこなった。
漁師の敬神観念の表現として、いずれの漁においても、漁船には神棚をしつらえ、塩と神酒ならびに「白木神社」で祈祷済みのお札を祭る。各家庭の神棚には、年初めの正月のしめ飾りはもちろんのこと、最初に漁獲した魚も、必ず神に供える。
それだけに漁師としての「禁忌」も厳しい。たとえば、妻の出産があれば一週間は出漁禁止する。地内に葬式がある時には、昆布・ウニ取り漁も午前九時で打ち切る。また出漁の日には、朝の汁かけ飯や四つ足動物は嫌ったり、夜の口笛は風を呼ぶので嫌われた。航行・操業の安全のために漁具をまたぐことも忌避された。海難の人を救済するのは「吉」であるが、仏滅・金曜日の出船は「凶」としたり、南東の風は、低気圧・シケの前兆として、その際の入船は避けることが多かったという。
このように、漁師の日常生活には数多くの「禁忌」が伝統の生活習慣として存在していた。