現在のこの地区の主婦の出身地はどこが多いのだろうか。古川町の主婦の結婚年次と出身地をデータ化したのが、表3・5・3である。
出稼ぎと漁業が中心だった戦前の古川地区で結婚した女性は、同じ地区内(銭亀沢)か対岸の青森県から嫁いできた人が多く、同時代(昭和元年から二十年)に結婚した女性の約七割を占めている。また戦後、四十年代にかけても、青森県の出身者の割合は減少してはいるが、この両地方の出身者が占める割合は多い。これは、地区内に「世話役」といって地区内のことを良く知っている男性がおり、青森県の世話人(女性)と連絡を密にして、それぞれの家庭に似合った女性を紹介していたからだという。同じ出稼ぎ者として働く親同士の間にも情報の交換はあったと思われるが、多くはこの世話人の世話でお見合いをし、結婚したという。結婚当日まで全く相手がわからず、結婚早々に夫は出稼ぎに出ていくため、出稼ぎから戻ってきた時、畑仕事をして日焼けした妻を見て、自分の嫁だと信じられなかったという笑い話というには余りに可哀相な話もあるという。古いしきたりがある本州の農村地帯から逃れたいという思いで、この地区に嫁いできた人もいた。半農半漁のこの地区での生活も決して楽なものではなかったが、大半はこの地で頑張ったのである。離婚はほとんどなかったという。ほとんどがお見合いで、恋愛した人たちは「好き連れ」と呼ばれた。
表3・5・3 現在戸籍にみる古川町の通婚圏
青森県出身者が減少する一方で、増加をしていったのが、函館市、銭亀沢、渡島地方の地域である。その中でも、戦前の函館市出身者は皆無であり、陸続きとはいいながら、いかに遮断された関係にあったかがうかがわれ、興味深い。「半農半漁の大変なこんな地域に、函館の町から来る人はいなかったんだよ」と地区の女性は語っていた。その函館の比率が、戦後高くなってきたのは、高度経済成長にともない、男性が漁業を離れてサラリーマン化したこと、国道の整備によって函館が通勤範囲内にはいってきたことなどによる両地域の交流、それに「嫁には自分たちとは同じことはさせない」という姑らの考え方の変化の結果なのではないだろうか。
一方、四十一年以降の青森県の比率の低下は、世話役が高齢化したことがひとつの大きな理由だというが、ほかに、北洋漁業の衰退と高度経済成長により、出稼ぎそれ自体も漁場から工事現場へ、北上から南下へとその内容を変容してきたことも一因として考えられるのではないだろうか。当然それにともなう人の交流も変容し、北海道内外の「その他」の項の比率が高くなってきたものと思われる。また、六十年以降の全体的な数字の低下は、この地区からの若者の減少を物語っているといえる。
このように、同じ環境あるいは類似した環境にあった女性を嫁として迎えていたこの地域は、時代とともにその枠を壊し、異なった環境の女性を迎えることになった。その習慣の違いなどが、この地区の女性の有り様をも徐々に変えてきている一因といえるのではないだろうか。