銭亀沢地区でつくる主なる農作物の作り方。
〈ジャガイモ〉
ジャガイモは単にイモというのが普通だが、馬鈴薯、ニドイモともいった。品種は主にダンシャクで、戦時中に多く栽培されるようになった。ダンシャクが普及する以前には、シロイモといわれる皮が白い品種を多く栽培した。デンプン用にはベニマルという種類があった。草取りはタチガマでとる。このカマ(鎌)は柄が長いカマである。
ジャガイモの種まきは四月下旬から五月初めにかけてで、昔は畝立てをしないでまいた。耕すときにはスキ(フミスキ)を使った。畑を起こすことを「畑フム」といい、起こした固まり(コゴリ)はクワ(ヒラクワ)でたたいて均した。ウネバラ(畝と畝の間)に肥料を入れた。肥料には購入したマメ粕、過燐酸を使った。マメ粕を入れるとおいしいといわれた。イワシの粕も使った。これらを混ぜ、コヤシ(人糞)もまいた。畑への行き来は、急な坂を上り下りするきつい作業で、特にコヤシにする下肥を桶に入れて、一人で天秤棒を担いで坂を上るのはつらい作業だった。種イモをまいてからスキで踏んで土をかけた。これをたたいておいて、芽が出ればクワで周りに土をかけ秋までそのままにした。種イモは、前年収穫した中から選び、適当に切ってそのまままいたが、切り口に灰をまぶす人もあった。種イモを植える間隔は足のひとつずつ、幅は二尺三寸。
本格的収穫は十月頃だが、ダンシャクは土用のコンブ漁の頃には収穫し食べることができた。シロイモの収穫はこれより遅くなった。イモ掘りは葉が枯れてから、短い柄の三本クワでおこなった。ジャガイモは、日に当てると青くなる(ヒラカライという)ので、日に当てて乾燥することはなく、保存は畑に穴を掘って入れ土をかけた。また、家の床にムロを掘る場合もあった。保存用の穴は、直径三尺、深さ三尺くらいで、床にムシロを敷いてからイモを入れ、ムシロをかけてから土をもって盛りにした。こうした穴をイモ穴、盛り上げた状態をイモ盛りといった。ダイコン、キャベツなども穴に埋めて保存した。
クズイモはデンプン(ハナ)に加工した。ハナトリキカイ(機械)を使ってくだき、樽に入れて流水にさらしてデンプンを作った。デンプンは自家用で、茶碗に入れ、煮立った湯を入れて、チャワンネリで食べ、モチにも入れた。カボチャやイモを煮て潰した中に入れてイモモチとし、団子汁をよくつくった。
〈大豆〉
「カッコ鳥がくれば豆まき盛り」「カッコウの鳴く声あれば豆まいてもよい」「スモモの花盛り豆まき」「スモモの花が咲けば、なにまいてもよい」などといい、五月十日頃にまいた。大豆のまき方は、畝立てしたところに、鎌の先で千鳥に穴を開けて二粒ずつまき、足で土をかけた。幅二尺四、五寸。トウモロコシは、豆類と違い、多数まいてからすぐって二本を残した。
九月にはマメ漬けのマメをとる。これをアオマメといった。枯れるのは十月で、カマで刈り取った。これをニオ積みにして乾燥し、脱穀は家に運んだ。ニオの高さは自分の目線くらいで、上には古ムシロを上げて雨よけとした。ニオを運ぶときには二本の棒を差し込んで二人で持って運んだ。脱穀は十一月に入ってからで、ムシロを敷いた上で六尺くらいの長さのマメタタキ棒で叩いて脱穀した。これをマメウチといった。また、フル棒(フルウチ)といって棒の先が回るものもあった。これは力が入って能率が良い。選別は、竹で編んだメカゴで通し、後は風の強い日に箕に入れて上から落として、風でゴミを飛ばした。その後は手でゴミをより分けた。カラは垣根や敷きワラ、焚き木にした。
大豆の保存は、カマスやカント袋にいれて、物置に保管した。品質の良い大豆は販売用にまわしたが、それ以外はミソ作りに使用した。ミソ作りはミソをたくといった。大豆を煮る釜はイワシ釜を使用し、釜の中で、わらを燃して焼いてからよく洗って使用した。ミソ作りは共同作業で、七、八軒が集まり、ユッコ(ユイッコ)でおこなうといった。一軒で年に大豆一俵分をミソ作りに使い、三年ミソにして食べた。