婚礼と衣服

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 たいていの場合、男性は黒の紋付き羽織・袴姿で、羽織の下には大島紬や銘仙の長着を着た。肌襦袢は白のメリンス、長襦袢は裏付き柄もののメリンスを、足袋は白ブロード地を花婿が、招待者は黒繻子地を履いた。それぞれ扇子を持ち、挨拶時には膝前に置き、歩く時は帯に挟んだ。花嫁は黒留め袖に角隠しが一般的であったが、金持ちの家などでは、振り袖を着ることもあった。髪は自分の髪で島田に結う人もいた。足は白ブロードの足袋に畳付きの錦織りの草履を履いた。婚礼は、初め女性の家で花嫁衣装を付けて花嫁だけで披露し、次に男性の家で二人揃っての婚礼が朝方まで続いた。翌日花嫁は丸髷を結い、留め袖か金紗などの上には必ず黒か紫の羽織を着て里帰りをした。花婿は紋付き羽織・袴を着用し、花嫁の家に挨拶をする習わしがあった。
 なお、婚礼衣装の紋付羽織・袴や黒留め袖は、自分で縫ったり買ったりして持っている人(古川町の木村キヨは、黒留め袖に丸帯を女子職業学校時代に自分で縫ったという)もいたが、多くは親類や知人に借りたり、草履、扇子、島田飾り一式と共に村内の髪結いや衣装屋から借りたりした。昭和二十二年に隣村の知人から親が米七升で黒留め袖を借りてくれて式を挙げたという人もいる。
 また、花嫁にソイヨメ・ソヨメという未婚の若い女の子が、島田を結って付いて行くことがあった。婚礼は自分の家でとりおこなった。このような婚礼形式は、昭和の初め頃より戦時中を除き、昭和二十五年くらいまで見られた。
 一方、結婚する当事者とナカド(仲人)に互いの親戚が集まり、衣服も普段着より少し改まったものを着て盃を交わす程度の炉端祝言も、戦前戦後を通じておこなわれていた。
 昭和二十七、八年頃より函館の八幡宮や共愛会館、東照宮などでおこなうことが流行り始めたが、昭和四十年頃でも家でおこなう人もいた。その後、婚礼衣装も紋付羽織・袴と黒留め袖からモーニングと白無垢、色打掛けやウェディングドレス、振り袖など、貸衣装で二、三変わりのお色直しをするようになり、現在ではホテルを会場にすることも多く、着装もそれにともなったものとなっている。
 また、婚礼の時期も昭和四十年頃までは、漁との関係で、たいてい二、三月頃におこなわれていたので、戦前は大雪の時など花嫁が、花嫁衣装を着てソリ馬車に乗ったこともあった。現在、婚礼の時期は特に限られていない。

婚礼衣裳(大正末~昭和初期 松田トシ提供)