日常の食風景

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 昭和初期の日常食の献立は、地域の海や山あるいは畑で採れたものを食材とし、朝は一汁一菜が多く、主食は白米、ときには麦の混じったご飯、汁物は味噌汁であり、味噌汁の実は菜っ葉、たまに豆腐が用いられた。昼食は芋を主食に、糠漬けや鰯の焼き物、塩辛などであった。夕食は一日で最も豪華だった。次にその一日の献立例を示す。
 朝食‥菜っ葉汁など、白飯(麦いり飯)、漬物など
 昼食‥イモ(カボチャ)、糠漬、塩辛、漬物など
 夕食‥白飯、和え物(酢の物)、刺身、煮物(または焼物)
 この献立は中流家庭の例であり、「オオヤケ」(主に船主)になると夕食にニシンの焼き物がでることが多かったという。この地区の中流家庭と「オオヤケ」は夕食の内容が異なっていた。
 このように昭和初期の献立は三食とも和風献立で郷土的色彩の濃いものであったが、平成四年十一月におこなった、三日間に食べた日常食調査によると、和風献立が八〇パーセント以下に減少し、和洋折中の献立になっていた。また中学生に好まれる料理の上位をハンバーグステーキ、カレーライス、ラーメン、グラタンが占め、現代の中学生は洋風料理を好む傾向があった。
 昭和初期は、食事の支度や後片付けはほとんど一家の主婦がしたが、子どもたちも皆よく手伝った。また、子どもたちには朝食前に済ませなければいけない仕事があった。それは座敷を掃く、雑巾がけをする、庭を掃く、生ごみを海に捨てるなどの仕事であった。女の子は主に家の中、男の子は外まわりの仕事であり、年寄りのほかは家の中に座っていなかった。女の子が大きくなると主婦の仕事を代っておこなった。祖母や一家の主婦は食事の前に亡くなった人の数だけ仏様用の茶碗(瀬戸物)にご飯を盛り、一つの茶碗には水をいれて、これらを重箱にのせて仏様にあげて拝んだ。それが終わらないと朝食は食べられなかった。朝食を済ませて学校に行く時に、「頭が良くなるから」と言って仏様にあげたご飯を食べさせられた。
 食事は家族全員でとり、座り方はほとんどの家で決まっていた。一般的には、主人が中心に座り、主人に近い方から兄、姉、妹と年齢順に並んで座った。主人が留守の時は、祖母や最も年齢の高い人が主人の席に代りに座った。松田家では曾祖母は炉の側に座り、「箱膳」で食事をした。飯台の上にはおひつ、汁物や漬物、焼物、おひたしが並んでおり、食事をするときは、伏せておいてある小皿、茶碗に個人個人で盛り、それを食べた。この際茶碗は決まったものを使用するが、箸は決まっていなかった。また、ご飯を食べるときだけ飯台の周りに「ござ」を敷いていた。板敷きの居間は絶えず雑巾がけをしていたので、黒光りに光っていた。炉の周りには、ござや畳を敷き、ヨコ座は主人の席と決まっていた。主人のそばには茶びつ(茶筒、茶わんが入っている)があり、お客の時は主人(主に父親)がお茶を入れた。また、お酒の好きな客の時は、神棚に供えたインカン(気)の抜けた酒を出したりしたが、お菓子などはほとんどなかった。