自営漁家住宅(a)は、一般的に、浜と道路を隔てて干場があり、その奥に、道路側に平入りの入口を向けて配置される。道路は海岸線に沿っており、住宅の棟も道路に平行であるから、住宅の表側は南西に広がる海岸線に面する。そのため表側の室は採光が良く、裏側の室は、段丘の崖までの距離にもよるが比較的暗い。
住宅の内部空間は、ほぼ棟通りで表側と裏側に分けられ、さらに長手方向には下手列・中央列・上手列に室が分けられる。つまり、土間の部分を含めて六分割されることになる。そして入口とそれに続く土間が住宅の下手表側にあるが、この隅に土間のあることが、後で述べる大規模漁家住宅とは大きく異なっているのである。
入口土間を入ると板敷の台所がある。台所には流しやガスコンロがあり、食品の調理をおこなう場所であるが、ここにテーブルを置いて食堂とする場合もある。裏手もしくは妻側に勝手口を設ける。裏側に増築する場合が多く、風呂場や便所を置いている。このような裏側方向への増築は、自営漁家住宅に限らず、この地域の住宅形式のいずれにも共通する。
土間に面して上手、平面では中央列表側に位置するのがイマ(居間)またはチャノマ(茶の間)と呼ばれ、古くはイロリ(囲炉裏)が、現在はストーブが置かれる部屋である。特に冬季にはこの部屋が日常的な居間として使われる。神棚も通常イマ・カミマ(神間)境の鴨居上イマ側に吊られ、イマから礼拝する。現存する自営漁家住宅は建築年代が大正期以降のため、シトミ(蔀)の遺構例はみいだせなかったが、明治初期の写真や銅版画資料より、イマの前面の建具としてシトミがはめられていたことがわかる。同様のシトミは亀田型農村住宅にも例があり、葬式の際の出棺はこのシトミをあけはなしてここよりおこなったという聞き取りが得られた。
イマの裏側は特に名称のない小部屋である。この中央列裏側の部屋は、徳差家住宅のみならず、自営漁家住宅と亀田型農村住宅のいずれにおいても部屋呼称を聞き取ることができなかった。そして、その用途も各家でまちまちであり、物置や子ども部屋など、その場その場の用途に応じて用いられている。しかし、台所とこの小部屋の境は、自営漁家住宅では閉鎖的であることより、この小部屋が寝室に対応する空間であった可能性も考えられる。
上手列表側がブツマ(仏間)やカミマと呼ばれる座敷で、上手妻壁に仏壇・床の間・違棚などの座敷飾りが並列している。自営漁家住宅では座敷設備はいたって簡素なものである。上手列裏側は、寝室で、長押(なげし)を廻し、葬式や婚礼の際の座敷の次の間として使われる。
次に、屋敷地および付属建物についてみてみよう。昆布漁家(a)の屋敷地は先に述べたように、浜から段丘下までの、間口が狭く奥行のある細長い矩形である。浜には護岸を切って船揚場が造られ、漁業に用いる網などの倉庫が設置される。国道をまたいで敷地が続き、主屋の前面は砂利を敷いた干場である。一般的に昆布加工場の雑蔵が主屋の脇に、道路に妻を見せて配置される。雑蔵の入口は主屋に接続している場合と、干場側に入口を設ける場合がある。主屋の裏手は増築されており、小さい菜園なども造る。そのうしろは段丘の崖である。一方、雇用漁民(`a)の屋敷地は狭く、雑蔵などの生業施設を持たない。
以上みてきたように、主屋内部は単婚小家族の住生活に対応したコンパクトで機能的な構成をしている。家財用の蔵などを別棟にせず、家族生活にかかわる部分はすべて主屋内に取り込まれており、干場や作業場といった生業のための空間とは切り離されている。これは、亀田型農村住宅についても同様である。このことは、たとえば関東地方の養蚕農家や、屋内での作業のために土間を広くとった平面形態の農村住宅とは対照的であり、あたかも専用住宅のような趣を呈している。そのため、小家族でたずさわる昆布漁業から、出稼ぎを含む雇用関係に基づく職種への転換、すなわち家族労働からまず子どもたちが切り離され、次いで主婦が専業化するという家族の近代化に際しても、住宅の空間構成の基本部分は継承され、戦後も伝統的な住宅形式が残ったものと思われる。干場や雑蔵などの生業空間を持たず、専用住宅である雇用漁民住宅が自営漁家住宅と平面形式を同じくすることもこの理由によるものだろう。