妊娠したことをハランダといい、妊婦はハラボッケあるいはミモチなどと呼ばれていた。
「妊娠したことは、人に知られるまで話さなかった」「身ごもったこと、恥ずかしくて人にいえないで、知らないふりして働いていた」「身ごもったことを人にいうなと祖母にいわれて、分かるようになるまで誰にも話さなかった」などと、一般に妊娠を恥ずかしがる風潮があって、なるべく他人には知られないように努めていたという。しかしクセヤミ(つわり)が始まると食物や体の様子が変わりそれとなく知られてしまうことになった。
銭亀沢の女性たちは、日頃から家事や育児のほかに浜に出ては漁や昆布採りの手伝いをしたり、さらに高台にある自家用畑の農作業にと精をだしていた。畑仕事はほとんどが女性の役割であった。「身重の体で、昆布採りの時などカッパ着て腰まで海に浸かって重い昆布担いだ」「大きい腹して、鰯漁のときモッコショイ(夜が多かった)したり、網引きなどの力仕事した」「下肥担いで坂道を何回も往復した」など、嫁たちは貴重な働き手として出産近くまで働いていた。古くから「楽すれば罪つくる」「働かないと産が重くなる」といわれ、妊婦自身も、また回りの者も出産まで働くことが当然だとする雰囲気があった。
現在は妊娠が確認されると、保健所で母子手帳の交付を受け、定期的に診察を受けることになっているが、戦前妊婦が助産婦の診察を受けると、姑から「今の嫁はよく恥ずかしくもなく人に腹見せる」といわれたという例もあり、姑や家族への気兼ねや経済的なこともあって、妊娠中に助産婦の診察を受ける妊婦は大変少なかった。大方は生まれる寸前になって「産婆呼んでこい」といって助産婦を頼むことが多かった。医師にはよほどの難産でなければかからなかった。また山沿いの地区では冬季積雪や吹雪に阻まれて馬橇の通行もままならず、家族がとりあげなければならない時もあったという。昭和十一年以降二十年まで産婆会の規定によれば、分娩料は五円、診察料は五〇銭、往診料は一円であった。ほとんどの妊婦が受診するようになったのは、戦後も昭和二十四、五年頃からであった。