慶応四年五月に箱館裁判所より出された掟の第三条に「志あるものは格別なれど、凡男は二十、女は十七まで夫婦の道を修め、渡世いたすべし」(「旧記抄録」『函館市史』史料編第二巻)とあり、当時はこの年頃になると結婚してもよいと考えられていたようである。しかし時代とともに結婚年齢は次第に高くなっていった。戦前男は徴兵検査が終われば世間的には一人前として扱われたが、漁師として人並みの技量を身に付け一家を支えるとなると「嫁もらいはどうしても二五、六歳になってしまった」という。女は一七、八歳からが結婚適齢期とされたが、大方は二〇、二一歳で嫁にいった。
結婚するのに男の二五歳、女の一九歳は厄年として好まれず、特に女のヒノエウマ(丙午)は気が強く男を駄目にするといって嫌われた。また四と九のつく年齢もシクに通ずるといって気にする風があった。しかし現在はこのような厄年や干支(えと)へのこだわりはほとんどみられなくなった。
結婚の相手は双方の親が話し合って決める場合と、親戚、知人またはハシワタシと呼ばれる世話人の紹介をうけて話を進める場合とがあった。なかには鰊場へ出稼ぎにいって仲良くなる者もいたがスキズレといって好ましいものとはされず、多くは親任せ、世話人任せであった。見合いをしても形式的なもので、相手を拒否することはなかなかできなかったという。昭和八年に二〇歳で結婚した女性は「相手は親が決めて、私は会ったこともなかった」というように結婚は当人同士の気持ちよりも親の意向が重視されていた。
志海苔での聞き取りからは村内婚が過半をしめていて、嫁は村内の縁故者や知人から選ばれることが多かった。その他函館市を始め戸井・恵山の近隣町村や、ヤマと呼んでいる七飯・大野の農村部からの嫁入りもみられた。また青森県からは鰯漁の盛んな頃の出稼ぎや戦中戦後の物資不足の折りなどに、村内の海産物と津軽の米との交易が縁となっての嫁入りがみられた。