戦前死産の子や赤子の遺体を白木の箱に入れ晒で包み小児の着物を掛けて墓地に埋葬した例や、昭和二十年七月の空襲のさなか荼毘(だび)に付すこともできず土葬にしたこともあったが、この地域では早くから火葬がおこなわれていたようだ。市立函館保健所の記録によれば、火葬場設置の届け出が古川では明治三十九年に、石崎でも明治四十一年三月にそれぞれ提出されたとあり、この頃にはすでに火葬が広くおこなわれていたものと思われる。ただこの頃の火葬場はなんの設備もない露天のノヤキバであった。
ノヤキは土間に薪を井桁に五段ほど重ね、その上にガンオケを乗せ、更に上や左右に薪を積んでシカ花に点火して燃やした。薪はその頃暖房用の燃料として各家庭に常時用意してあり、ショイコに背負って前日または当日ヤキバに上げておいた。薪は石炭や重油に比べて火力が弱く遺骨になるまでに四、五時間もかかったので、ヤキコと連絡係の親戚の者を残して自宅に戻った。
燃えつきると、遺族や親戚の者が白を着たまま線香やろうそくを持ってコツアゲ(コツヒロイ)に行った。遺骨は最初胸仏を拾い、次いで足元から頭に向かっていき、拾った骨は箸渡しにして骨箱に納めたので、今でも食事の時に箸渡しにすることは忌み嫌われる。残骨は灰塚に納めた。灰塚の側には、草刈り鎌に草鞋や草履・下駄などの履物を結びつけたものや、故人が使用していた杖などを立てておいた。これらは「四十九日」または「百か日」が過ぎた頃火葬場で燃やすなどして処理した。ちなみに、大正末頃までは雑貨屋で買ったカメを転用した骨瓶(こつがめ)(骨壷)を使っていた。
コツアゲが終わって帰るとき、ロクマイモチ・ヒネリモチ(上新粉で作ったべこ餅大のもの六枚)を互いに引っ張り合って後に投げた。この時後を見てはいけないとされていた。この餅を狙うカラスを「団子食いカラス」といい、このカラスが鳴けば不幸があるといわれていた。
ヤキバから帰ると玄関に塩と水桶が用意してあり、手で塩をもんでから水を掛けてもらい、けがれを払い身を清めてから家に入った。けがれを消すといって消し炭を用意する家もあった。