力持ちの話

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 相撲は昭和十二、三年頃古川町が一番盛んであった。八月の十七、十八日に、川濯神社で土俵を作って相撲をやった。赤川の赤川石、七飯の七飯石、函館から館の里と若の花とが来た。青森から来たのは藤の里。古川町からは一人、カネホン川村のトウサンは力もあったし、体格も良かった。しこ名は古川石、いい相撲とりであった。三人抜き、五人抜きがあり優勝すれば下駄、草履が当たった。反物類も当たった。お祭りの活気は相撲があるのとないのでは大した違う。花相撲だからご祝儀も上がるし、勧進元は相当金がかかる。町の寄付でやるから、集まりも大きいが出るのも大きかった、という。
 その他、この地区に伝わる力持ちの例をあげてみよう。
 渡島洋というのはトラックの運転手だったが二六貫(約九八キログラム)の粕建てを枕を放るように車に放った。背丈は五尺八寸(約一七五センチメートル)くらい。相撲も強かった。
 宮川忠は米一俵六〇キログラムを担いで一里の道を一回も休まずに歩いた。
 奥尻から来た堀順次という人は約米二俵担いだ。口でいうのはへただけど、字書かせたら大したもんであった。
 根崎の宮崎は荷馬車やっていて、魚粕一本といえば二五貫あるのを端々つかんで、すっと担いで、車の上にどんと置いた。
 林易蔵はヤマトヤ堂野前商店の四斗の酒樽を担いで途中休まないで背負ってきた。背丈は五尺七寸(約一七二センチメートル)、体重二一貫(約八〇キログラム)。米俵を口で咥えて持ち上げたとか米俵二つずつ両脇に抱えて坂を上ってきたという。
 古川の川村定雄は兵隊のとき部隊代表して相撲をとった。体はあまり大きくないが得意な技がある。見上げるほどの兵隊が代表して出てきて一番勝負となれば、内無双とか外無双をつかう。
 根崎の瀬川猛の親は体格がよく、相撲が好きで好きで、花相撲などでは根崎石というしこ名であった。盆の八月十五、六日の二日ばかりでなく、他所の村までふんどし担ぎをして歩いていった。
 カネトモの兄、ヤマジュウの親父、ヤマジュウイチの親父、和泉のオンコも力があった。
 昔はコンブを取って、イワシを取って、春にニシン場に出稼ぎに行ってという状態で生活していた。今はだんだん変わってきた。イワシ漁もやったが、ほとんどイワシが取れなくなってからイカを主体にして生活した。普通の仕事の場合でも力仕事が課される。浜に二〇人も三〇人も若者が集まってコールテンの前掛け、真田紐を付けて力だめしをした。イワシ粕を干して建てに詰め、一建て二四貫(約九〇キログラム)のものを下から持上げてわあわあと騒いでいる。持上げられなければ一人前の漁師でなかったのである。