遊びの聞き取り調査

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 戦前の子どもは自分で遊びを工夫し、創造していた。石崎では正月の遊びとしてこま、凧、羽子板などがあった。こま、凧は売っていたが買えなかったので自作。女の子はあやとり、あやこ。道具を使った遊びは道具を買う金もなく、竹馬も自分で作った、という。
 大正十三(一九二四)年生まれで志海苔の吉田正明は、高等小学校の頃、がき大将との親密なつながりがあった。年に二回、盆と正月になると、小学校五、六年生のがき大将について、ここから五、六人徒党を組んで歩いていく。万歳館(現在松風町の広小路にある競輪の場外売場)という映画館でまず映画を見る。その向かいの通りに裸電球の廉売があって、味噌汁と魚の煮付けとお新香とご飯、その程度の食堂があって、そこへ行って食べた。弟妹がいるので、一〇銭買うと一〇個くるおやきを買って家に帰るのが楽しみであった。五〇銭くらい手にしていくとなんぼか残った、という。
 戦後、昭和四十二(一九六七)年生れの本間力は、ビー玉は、子どもの四、五人が一〇個ぐらい小玉を出し合って四角の中に集め、二メートル離れたところから大きい玉をぶつけて、四角からはみだした小玉を取る。パッチは丸形。地面に円を描き、上から叩きつけて裏返すか、円の外に出して取るゲーム。砂場に穴を掘り、一枚ずつ埋める。金パッチというのがあり、のり缶の蓋で縁を折ってパッチを包む。鉛を溶かして流し込むが、鉛の量を気付かれないように入れる工夫をする。プロレスリングは、メディアの影響があり猪木、天竜が有名であった。海水浴をした。プールは次の世代。ウニ、アワビを取ってもそれほどうるさくなかった。一日の小遣いが一〇〇円ぐらいのときに一〇〇〇円、二〇〇〇円の小遣い稼ぎをした。ウニなら一万円ぐらいになる。エラコといって魚のエサにするのを釣り道具屋に持っていった。小遣いはおやつ代として、仲間同士で分けた。鬼ごっこは四十パゲという。鬼の通り道を走り鬼に触られると外にでる。瓢箪というのもあって、木の棒でとじて鬼をとじ込める。鬼は木に触れない。陣とりは、電信柱二本を決め、六人を三人三人グループに分ける。相手の陣に触ると勝ちとする。ラグビーの感じで相手を捕まえてタックルする。馬乗りは、守備と攻撃に分れた、という。
 昭和五十三(一九七八)年生まれの川村ゆかりは、古川町に「母と子の家」があり、日曜日、休日に遊びに行った。積み木、木馬、卓球、こま、お手玉などがあった。幼稚園には鉄棒、ブランコ、すべり台などがある。学校ではドッチボール、バスケットボール、バドミントン、バレーボールなどをした、という。