銭亀沢地区を含めた下海岸に住む人びとを下衆と称しよく稼ぐ者にたとえた。特に、新湊は漁業が多く仕事がきついので、「湊に嫁はけられない」という。下海岸では、津軽衆・南部衆・秋田衆などとそれぞれの地方出身者のことをいい、かつて同郷人が集落をなして住んでいた。こうした社会では婚姻も、村内か、さもなくば出身県から嫁を迎えることが多かった。津軽衆はよく働き、仕事とろいば南部衆という。とろいは動作が鈍いこと。能登衆の通つたあとは草も生えないとか越中衆の歩いたあとにペンペン草もおがね(生えない)といった。
石崎では、豆取りに行って、豆畑で子どもを生んだ話もある。それだけ忙しく仕事をしていた、という。赤ん坊が生まれたとき、「ニグニグからメンコメンコ生れた」「メッケばかり持って、カマド返しだ」と陰口を叩かれた。
子どものしつけ、教育にはどの親も一所懸命になる。「手かけないで目かけて」と子育ての秘訣を披瀝する。普段の生活で行儀悪いと「エンジャメわるい」と称し、ぼんやりしていると「痩せ馬さ青草見えね」、とんで歩くと「尻(ケツ)さカラカサ」などと行儀作法に厳しい目をもっていた。雑草のように強くなれとの願いと共に、苦労しないで大きくなると「日陰のドンゲ(いたどり)」といった。家計を考える時「泣く子も鍋の中見てから泣け」と諭すこともある。
働くことを尊び、怠けることを特に嫌った。「カラポネヤミ(怠け者)のいったて仕事」「ゴキさらい(他人の家のことは一所懸命やる)」「せあみこいた(ずる休みする)」「尻さ餅ついた(座ってて仕事をしない)」と常々口にし「足の大きいのは味噌踏み上手だ」などとおだてた。
往時、本州から渡道した者は「北海道に行けば道路に札落ちてる」「他人の飯食わねば一人前にならない」といわれ、「投げるもんでも三年取っておけば必ず役立つ」「ジョッパリ(強情な人)とつっぱり(心張り棒)は強いほどよい」と辛抱に辛抱を重ねいずれ故郷に錦を飾ることを夢見たという。
オヤカタからは「飯食うのが遅いのは仕事も遅い」「寝ない者と食わない者は役に立たない」といわれた。針仕事のとき、糸を面倒くさがって長くして縫うともつれるから、かえって手間がかかり「手つけの長みず尻からくまる」、イカ針を落として、小さい針を使い、みすみす大きいイカを逃して失敗することを「丸太流して、木端拾う」といった。また思わぬ僻地に飛ばされることを「タンポポの綿毛のようだ」と称した。
「時化を取れ」といって、他の漁師が出ないでいる時に漁をしてくると値段がよくて二倍三倍になる。みんなにイカがついても、自分に漁がつかないとき「オラの嬶、上向いて寝てたな」という。夫婦共稼ぎを「親父米あたい、嬶味噌醤油あたい」、天気のいいときは夫婦の営みは一回、雨降れば時化て漁は休みだから三回すると「天一雨三」という。
息子や娘が年ごろになると親は嫁取りや婿を心配する。昭和三十年代までは、見合い結婚が主流で「下駄は緒柄、嬶は親父がら」「六つ劣りは幸せくる」と仲人が活躍した。自分の思惑が外れてとんでもない事態になったとき「うだで丹前から綿出たじゃ」という。「モッコ背負って弁当持って出て行って帰ってこない(婿に行ったということ)」「小糠三合あれば婿行くな」「婿の飯食うか、鉈で首切るか」といった時代もある。今は若い者同士が決めるので、「親の意見とカスベの骨」で怖くないの意である。
嫁に行って出たり入ったりすることを「引き出し」と称し、嫁姑の確執、争いがあった。「嫁さん一人もらえば芋一俵多くいる」といい、嫁の立場からすると「カラスの鳴かない日あっても、嫁の泣かない日はない」「嫁に行く人より婿もらう人が三粒涙余計にこぼす」「親立てれば婿根性曲げるし、婿立てれば親根性曲げる」「四〇歳、五〇歳なってもネエさん(嫁)」であった。
悪口をいうことを「あっこ(悪口)掘る」「人のナノコマ(悪口)いえば影うつる」といい、隣近所オヤコマキ(親戚)では悪口をいえなかった。時には「人の面を馬の面と思って」と愚痴をこぼした。寄り道して歩く人のこと「ゴッコ(ほてい魚)みたいだ」といった。風邪をもらってくることを「三平汁をよばれてきた」という。生業に関係する言葉になぞらえて表現するところがおもしろい。魚の焼き方で「川は背から、海は身から」とよく聞くが「鱒は馬の鼻息でも焼ける」という。
向こう三軒両隣、相互扶助の精神が強い。「付き合いだば家も焼く」といい「一升あれば五合ずつ分けて食う」仲間意識がある。大した用事もないのに来るお客を「ごみたてお客」という。