[銭亀沢の民俗の特色]

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 津軽海峡域の民俗の特色を、主として漁撈と儀礼関係を中心として述べて来たが、銭亀沢地区の民俗もほとんど差異はなく、津軽、南部地方の民俗が混合して伝承されてきており、その主な事例を述べることとする。
 他地域と大きく異なる事例は、銭亀沢の海産干場の所有形態が、古くから個人所有であることであろう(第一章第四節参照)。他地域においては、共有地が多く毎年干場をくじ引きなどで決めることとなっている事例が多い。推測であるが、銭亀沢地区は、古くからコンブ漁で開けた地域であることから、良質のコンブを生産するためには、乾燥に適した砂浜の確保が必要であり、早い時期に居住した者から干場を所有したのではないかと考えられる。また、冬季間におこなわれるイワシの搾りカスの乾燥は、干場を選ばないことなどからも、イワシ漁を主とする地域との所有形態の差異がでたものとも考えられる。
 社会構成では、モリッコといって、青森県内から着物を売りに来て、魚を買って行く仲買に仲立ちをしてもらい、小学二年生くらいの女の子をもらい、子守などの手伝いをさせ、一人前になると実家に帰りたい者は帰し、その家から嫁に出たい者は嫁に出した。このような事例は、青森県下北郡東通村においても、モライッコといって、小学校入学前の子どもをもらい育てて、男は磯漁、女は子守などをして、分家させたり嫁に出したりしたのと同様であり、もらって来る先は農村部であった。
 年中行事においては、五月節供におけるベコモチは、下北地方と共通している。
 また、七月に子どもたちが提灯や手作りの灯籠を持って、「竹に短冊 七夕祭り オーイヤイヤヨ ローソク一本ちょうだいな」と歌いながら家々を回り、ローソクをもらう行事がある。道南各地からの報告もあるが、青森県内でも町内のネブタを子どもたちが引いて回っていたころは、家々からネブタに灯すローソクをもらい歩いていたことから、ローソクをもらい歩く習俗が残ったものと考えられる。石崎では、明治四十三年生まれの話者によると、若い頃はおこなっておらず、戦後間もなくからおこなわれたという。
 人生儀礼では、ロブチゼン・ロブチシュウゲンなどと呼ばれる身内だけで簡素におこなう婚礼があった。これは、スキズレ(恋愛結婚)や、出稼ぎ、コカタ、分家などの経済的に余裕のない場合におこなわれたという(同章第五節参照)。
 墓の形態の特色としては、一メートルくらいに石垣を積み上げ、その上に墓石を建立しており、内地の地面に直接墓石を建立する方法と異なっている。
 生業では、稲作をおこなっていないため、米は内地から海産物との交換で手に入れていたが、特に戦後の物資不足の際には、コメショイといって、青森県の南津軽郡・西津軽郡・北津軽郡などにスジコ・サケ・ホッケ・ギンダラの醤油潰けなどをリュックに入れて背負って行き、帰りに米を運んで来た。毎年決まった所に行くことから、嫁の世話などもおこなったという。
 銭亀沢の主な民俗の特色としては以上であるが、社会構成からみると、志海苔町の土地所有形態が、村の成立過程が良く理解できる事例である。また、モリッコは津軽海峡域における漁村における労働力確保と農村との関係を考える上で貴重な事例である。
 儀礼関係では、津軽海峡域内での、長期間における各地からの人の交流による年中行事の混合が見受けられる。また、函館の八幡宮の祭礼への関わり方は、本州における城下町の祭礼に周辺の農漁村が関与する形態と同様である。墓の形態は、津軽海峡域内では同様のものを確認していないことと、他地域での調査や事例を確認していないが、『都道府県別冠婚葬祭大事典』(平成四年)に「石川県の能登地方では、それが石垣を模して造られ、大きな石垣の上に墓が建てられた格好になります。」とあり、関連性を確認する必要があると考える。
 生業では漁撈関係は前述したが、対象とする漁獲物や、加工方法、流通などの変化にもよるが、津軽海峡域内だけでは比較することができない広域にわたる技術伝播が見受けられる。また、カツギヤやコメショイと呼ばれた人たちが、津軽海峡域の民俗に及ぼした影響も多々あると考えられるが、その実態を詳細に報告したものが少なく今後の課題であると考えられる。