志苔川口ノ東側ノ嶼ヲナセル台地ニ其跡アリ。面積約五段歩余、東西五十間、南北廿七間乃至丗間高サ約四丈、周囲ニ七尺乃至一丈ノ土塁ヲ築キ其外縁ニ室□ヲ設ケ南西大手ニ當ル所ニハ更ニ外廓トシテ矩形ノ土塁ヲ置ケリ。
志苔川其西ヲ流レ、小沢其西ヲ廻ル。以テ敵ヲ防グベク、以テ門族ヲ安住セシムルニ足ル。
想フニ四百余年前ニアリテハ蓋シ形勝ノ地タリシナランカ。
是ハ後花園天皇ノ康正二年頃(四百五十余年前)亀田海岸ノ領主タリシ小林太郎左衛門良景(法号妙国院殿良景日鶴居士長禄元年五月十四日戦死)ノ築クトコロニシテ、長禄元年ノ夷乱ニ当リ(コシヤマインノ乱)テハ空シクソノ蹂躙スルトコロトナリ、永正八年ノ変ニハ遂ニソノ燒ク所トナル。爾来小林氏ノ族移リテ松前ニ住シ、館全ク廃タレ以テ今日ニ至ル。
故ニ礎石ノ存スルサヘナク、僅ニ井戸ノ跡ヲ存スルアルノミ。而シテ目下ハ畑地ト変ジ、馬鈴薯等栽培サレツヽアリ。
有志等之ヲ見テ大イニ憾ムベシトナシ、塁内洽ク松櫻等ヲ植ヱ、行ク行クハ此所ニ小公園ヲ作リ、永ク此ノ旧蹟ノ保存ヲ謀ラントセリ。附記 本説ニハ種々異論アリテ、何レヲ真偽トモ判ジ難シ。他日ノ考證ヲ待ツテ稿ヲ起シ詳述セン。小林氏ノ後ハ八代岩五郎氏稚内ニアリト。