前の噴火史で示した
松前方言考によれば、弘化3年9月30日(1846年11月18日)の夜に「エサンという処の山より沸淘し」て、水無地区がラハール(火山泥流)の被害を受けた。勝井ほか(1983)は、水無地区においてラハール堆積物の中に白色の降下軽石を確認したことと、「沸淘し」の部分に注目して、水蒸気噴火が発生しそれに伴うラハールが発生したことの記載であると解釈した。現在も水無地区には地表面付近にラハール堆積物が見られ、航空写真および現地踏査からは、水無地区へ繋がる沢の上流部には、爆発によって開口したと考えられる崩壊地形(水無沢火口)と、白色火砕物の局地的な堆積が確認できる。Es-5噴火と命名したこの噴火に照合できそうな噴火堆積物は、火口原において層厚最大20センチメートル、最大粒径1センチメートルで確認される白色軽石からなる降下火砕物である。層序的には、下位のKo-d(1640年)との間に数センチメートルの土壌を挟んで存在し、さらに上位には後述のEs-6およびKo-a(1929年)がのる(写真1.13)。時間間隙を示すレスの厚さからはKo-dよりもKo-aの噴火年代に近いことが推察され、18世紀以降ならば文書記録が残された可能性が高い恵山地域において、噴火記録は1846年および1874年のもの(1841年も疑わしいが)のみであることから、ここでは、下位の、Es-5を1846年(弘化3年)の噴火記録に照合し、上位のEs-6を1874年(明治7年)の噴火記録に照合する。堆積物に新鮮な物質を含まないこの堆積物は、水蒸気噴火によって形成されたことと考えられる。また、
松前方言考の記述からは、この噴火はわずか数時間で終息したことが考えられるが、夜間の出来事であったこと、およびラハールが発生している天候を推察すると、噴火口などの山の上の詳しい状況は判らない。噴出体積は分布範囲と層厚とから10
5立方メートルのオーダーであろう。