住居跡は直径7メートルのほぼ円形に近いもので、幅20センチメートル、深さ35センチメートルの周溝をもち、3個の主柱穴と多くのピットがある(第39図)。床面ぎりぎりまでブルドーザーで削られていたため、住居に伴った遺物は少なかったが、中央には焼土があり、床面からは後葉の日の浜式土器、周溝中から良質なヒスイ玉が出土している。
日の浜式土器という土器型式名は、吉崎(1965)が雲形文と工字文が施文された3点の浅鉢土器を図示し、日の浜遺跡から出土した東北地方の大洞A式土器に相当する土器に命名したものである。
日の浜遺跡の発掘を行った吉崎は、「日の浜遺跡では、多数の完形土器がかたまって発掘された地点がある。ところが、こうした土器のうち、かなりのものが2個ずつ下むきにかさねられた状態で検出された。大形の壺のばあいには、そのなかにさらに小形の壺をいれていることも確認された。こうした地点には、しばしばベニガラの散布がみられるし、また、これらの土器をかこむようにして、相当量の石刀破片が発掘されている。おそらく、こうした遺構は墓地あるいは特殊な祭祀地域として考えられるべきであろう。」と、遺跡の状況を述べている(吉崎、1965)。写真5は墳墓の発掘状況、写真6は配石遺構で、共に昭和39年の発掘調査で確認されたものである。第43図は日の浜遺跡から出土した完形なものと一部が破損した石刀である。
出土遺物について不明な点が多いが、日の浜遺跡から出土した土器について野村(1979)は、第38図2~4、8,10~11に示した雲形文などが施文された大洞C2式土器と、第38図1、5~7、9に示したような工字文が施文された日の浜式土器に区分できるとしている。また、同遺跡からは北海道指定有形文化財に指定された、イノシシの幼獣(ウリボウ)を形どった土製品が出土している(第44図)。石狩低地帯以南の後期から晩期の低湿地遺跡から、北海道には生息しないイノシシの頭骨や牙が多量に出土し、本州からイノシシの幼獣を移入し飼育した可能性が指摘されており、日の浜遺跡出土のイノシシの幼獣をかたどった土製品がその証拠とされている。
日の浜遺跡からは配石遺構、墳墓と大洞C2式と日の浜式の精製土器、赤色顔料が塗られた土器、石刀などが出土することから、遺跡は主に晩期中葉から後葉にかけて形成された墳墓群であったと考えられる。
5、晩期の墳墓発掘状況
(日の浜遺跡、昭和39年、吉崎昌一撮影)
6、晩期の包含層で検出された集石遺構
(日の浜遺跡、昭和39年、吉崎昌一撮影)
第43図 日の浜遺跡から出土した石刀
野村崇「北部日本における縄文時代晩期の石刀について」『北海道開拓記念館研究年報』第6号、1978
第44図 日の浜遺跡から出土したイノシシ形土製品
斎藤裕彦「東北の弥生から見た北海道文化」シンポジウム『海峡と北の考古学』資料集Ⅱ、日本考古学会 1999年釧路大会実行委員会、1999