[開拓使の廃止]

433 ~ 435 / 1483ページ
 明治13年(1880年)5月、参議首席大隈重信は「経済政策の変更」について建議した。その趣旨は、国の経済、とりわけ工業を盛んにするために民間企業を導入することとし、「官営諸工場払下概規」を定め、これまでの官営諸工場を、順次、希望する民間業者に払い下げるという方針であった。つまり、国主導の経済活動を民間企業に移行し、活性化を図るというものであった。
 この建議は、開拓使の存在にも影響を及ぼした。
 開拓使は、もともと本州等の(藩であった)府県とは歴史的に異なり開拓の遅れている北海道に、特別の予算を計上し設けた行政府であった。そして、明治5年(1872年)には「開拓10ケ年計画」をスタートさせた。これが明治15年(1882年)1月を以て一段落したとし、開拓使を廃止、2月8日より北海道を(本州並に)函館・札幌・根室の3県に分割することとしたのである。すなわち、開拓使は政府の各省と同格の権限を持つ行政府であり、政府は、中央集権制度強化の方針からも、北海道、一地方だけを特別区扱いにするのではなく他府県並の行政府とすることを急いだのであろう。
 政府は、開拓使の廃止・3県分割について「開拓10ケ年計画の終了」を理由としているが、この開拓10ケ年の概要について、桑原真人(札幌大学教授)は、レポート『近代北海道の移住と開拓について』の中で次のように纏めている。
 
 『近代北海道の移住と開拓について・北海道開発の沿革(北海道拓殖銀行調査部編・北海道新聞社・昭和55年 北海道80年代の可能性から引用)」』桑原真人(札幌大学教授)より明治2年~14年抜粋
 
明治二年から四年まで『開発計画なし』
<開発の特色> 士族階級に対する授産(直接保護)
<開拓の資金>
 (一)北海道内歳入金を充当(函館・根室支庁の海産税が主)
 (二)定額 二〇万両
 (三)定預米一万石
<資金の実績> 一八五・九万円
<おもな施策> ・札幌本府(開拓使庁舎)の建設
       ・移民の保護(明治三年十二月「移民規則」を制定)
 
明治五年から十四年まで『開拓使一〇年計画』
<開発の特色> 士族階級に対する授産(直接保護)
<開拓の資金>
 (一)定額 一、〇〇〇万円
 (二)定預米一万四千石(明治六年まで支給)
 (三)別に租税収入を使用
<資金の実績> ・開拓使一〇年計画(費)二、〇六六万円
<おもな施策> ・陸路、海路の開削(札幌本道など)
       ・幌内炭山の開発
       ・鉄道の敷設(手宮~江別間を完成)
       ・屯田兵例則を制定
       ・札幌農学校を開校
       ・開拓使官営工場を設置
       ・北海道地所規則、北海道土地売買規則を制定
<人口の推移> 明治二年には五万八千人、明治十四年には四倍余りの二四万人
 
 黒田開拓使長官は、開拓使廃止の政府基本方針に反対ではないが、「開拓の基本固めが未だ不十分であるので、もうしばらくの存続を」と願い出たが、開拓事業の経費も見通しが立たず、進捗についても(いつまで存続させるのか)保障がないことなどの議論を経て方針どおり、明治2年7月8日設置された『開拓使』は、12年5か月余り北海道の行政府としての使命を終え、明治14年12月28日を以て廃止するとの決定をみて、次のように通達された。
 
「曩(さき)ニ其使ヲ置カレ北海道開拓ノ事務ヲ委任シ、十ケ年間別途ニ定額金ヲ支出シ来候処、来ル十五年ニ至リ、満期候ニ付、同年限リ廃使置県ノ処分ニ可及候条、別紙条項ニ随ヒ関渉ノ各省ニ協議シ、将来置県ノ方法詳細取調上申可致 此旨相達候事」
一、県地ノ区域ヲ画シ、県庁ノ位置ヲ定ル事
一、県庁ノ経費並官民費ノ区分ヲ定ル事
一、所属諸鉱山及ビ鉄道処分ノ事・所属諸牧場其他開墾地処分ノ事
 ・所属船舶処分ノ事・所属諸器械処分ノ事・屯田兵処分ノ事・学校処分ノ事
 
 なお、『開拓使10年計画の成果』の概略については資料編に記載する。
 
開拓使官物払い下げ事件
 明治13年、参議首席大隈重信の建議で、官営諸工場概規を定め、これまでの官営諸工場を払下げ、民間による産業の活性化を図る経済政策の変更については先に述べたが、北海道でも、開拓使廃止により、官有物の払い下げが行われることになった。
 この開拓使官有物払い下げをめぐって起こった事件が、開拓使官物払い下げ事件で、明治14年の政変のきっかけともなった。
 政府は、明治13年(1880年)の「官営諸工場概規」により、翌年5月、開拓使に対して、官営諸工場払い下げ見込みを上申するよう命じた。
 これに対して、廃止延期論をとっていた黒田清隆は、10年計画の満期に伴う諸事業の継承を開拓使内部で検討していた。そして、明治14年(1881年)7月、開拓大書記官安田定則・同権大書記官鈴木大亮・金井信之・折田平内ら4人の開拓使官吏(北海社という名称の事業体結成を予定し)は、東京・大阪・敦賀・函館・札幌・根室の地所・官舎・倉庫・船舶・農場・牧場・工場等の開拓使官有物を、38万余円、30年年賦で払い下げを願い出る「内願書」を政府に提出する。併せて、黒田は開拓事業の継承発展を強調した「伺書」を太政大臣に提出した。
 この出願は黒田の強硬な主張により、同年8月1日付で認可されるが、東京横浜毎日新聞、郵便報知新聞−後の改進党系の新聞を先頭に、自由党系の新聞、政府系の東京日日新聞までが加わった攻撃に晒された。東京や大阪の演説会には数千人の聴衆が集まったといわれている。世論の非難は“払い下げ価格の不当な安さと、薩閥官僚と政商が結託して公物を私するものである”というところにあったが、藩閥専制の批判は、おりからの自由民権運動の国会開設要求と結び付いた点に、払い下げ反対運動の高まりの要因があった。
 北海道でも書記官らへの払い下げ許可に対抗して、函館区民の払い下げ請願運動が起こった。同年8月12日、豪商常野正義・前函館新聞社長山本忠礼らは汽船・倉庫の払い下げを願い出たが却下される。また、函館区会は、同13日豊川町常備倉の区民への払い下げ請願を決議したがこれも却下。さらに区民総代9人による常備倉と同地所の払い下げを函館支庁に嘆願、おりから明治天皇巡幸供奉(ぐぶ)で函館に来ていた参議大隈重信に直訴する。
 この時期、福沢諭吉門下の矢田績ら東京の論客も函館に来ていて、払い下げ反対・国会開設の運動を活発に展開、前函館新聞社長山本忠礼らも自由民権運動に共鳴し行動する。開拓使はこれらの運動を官庁に敵対する行為として弾圧を行い、山本は禁獄100日に処せられる。しかし、払い下げ反対運動は益々激化し、これに抗し切れず政府内部にも払い下げ中止の意見が強まってきた。
 黒田は、大隈重信が福沢諭吉、岩崎弥太郎(三菱)と協力し、薩長閥を倒そうとして払い下げ反対運動を煽っているという、いわゆる大隈陰謀説を唱え、政争の焦点を国会開設へと移していき(薩長派参議は)伊藤博文を中心に団結し、払い下げ取り消しを行うとともに大隈を排撃、10年後に国会開設の方向で政府部内を統一した。そして、明治14年(1881年)10月11日、北海道から天皇還幸とともに開かれた御前会議で大隈は辞職、同派の官吏も罷免、翌12日付で開拓使官有物払い下げの処分取り消しと国会開設の詔勅が公示された。黒田は、明治15年1月開拓長官退任後、内閣顧問に転じ、大久保利通亡き(1878年西南戦争鎮圧に絡み征韓派士族に斬殺される)後、薩摩派の頭領とされたが、長州派の伊藤博文らに押され政策に見るべきものがなかった。晩年は専ら政界のまとめ役としての存在を示し、明治29年(1896年)第2代の首相となった。
 なお、黒田転出後、開拓使廃止の、明治15年(1882年)2月8日まで、参議兼農商務卿西郷従道(西郷隆盛の実弟)が兼務し残務の処理に当たる。