[3県1局(北海道事業監理局)時代の総括]

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 これまでの開拓使は地方行政府であると同時に、未開の北海道を開発するという特殊な実情から、政府の各省と対等の権限を有していたが、北海道を分割して新しく設置された3県は、巨額を投じての開拓10年計画終了という事から、本州の府県と同様の地方行政府と位置付けられ、制度も機構もそれに倣った(但し、県会は置かれなかった)。すなわち、函館県の諸係に見るよう一般の地方行政面の政務を行うこととしたわけである。そして、それ以外の、屯田兵・官営事業・船舶運航・農学校・裁判所等については、政府の内務、大蔵・工部・農商務・陸海軍・文部・司法各省に分割して引継ぎ運営することとなった。しかし、これらの事業等は、開拓使当時のような全道的な統一運営ができず、互いに連絡を欠き多大な損害を生じるなどの弊害から、特に3県にまたがる重要産業について、統括し管理・運営する官庁として、明治16年(1883年)1月29日に、「農商務省」に「北海道事業監理局」を設置した。すなわち、3県1局時代の呼称はこれに由来する。
 この「農商務省北海道事業監理局」の局長に任命されたのが、先述の開拓使官物払い下げを申請した、元開拓大書記官安田定則であり、農商務卿が開拓長官を兼務した西郷従道ということから、当時の実情を十分承知した上での人事と推察される。「北海道事業監理局」の仕事は、まず、農商務省へ引継がれた諸事業と、10年計画の大プロジェクトであった幌内炭鉱と幌内鉄道と関連工場を工部省から農商務省へ移管し、併せて管理・運営することであった。次に「北海道事業監理局処務規定」により、東京本局に整査・会計・物産・庶務の4課を置き、札幌に農業・工業・炭鉱鉄道の3事務所と農学校、有珠郡に紋鼈(もんべつ)(伊達)製糖所、亀田郡に七重農工事務所、根室根室農工事務所を開設し、それぞれの事務所所管の事業を管理・運営する体制を整えた。
 この主な実績については、①苫小牧−根室間の電信架設、②鶉(うずら)山道の起工、③黒松内山道の起工、④北海道物産共進会の開催などが挙げられるが、開拓使の事業を継続するのみで、新規の計画は殆ど行われなかった。特に最も力を入れなければならない「植民事業」の不振に対しては多くの批判があった。なお、この時期は全国的な不況風に見舞われ、新開地の北海道はその影響を強く受け各種事業の中止・廃止が相次いだことも災いしている。これに対して、3県の行政は、開拓使時代の諸施策の踏襲に過ぎず、分割による人件費・地方行政費の肥大、あるいは分立による非能率性も目だった。例えば、官吏の人数であるが、開拓使時代は支庁を含め1,295人に対して、3県と北海道事業監理局を合わせると、2,772人、2倍を上回っている。費用の点では開拓使時代で一番支出の多かった明治13年で2,184,356円、3県1局時代の17年には2,202,017円とおよそ1万8千円の増である。しかも、大規模な新規事業が殆ど無しの実態なのにである。加えて「北海道事業監理局」の官営事業の振興「営利主義」に対して、「県」の住民を治める「牧民主義」を志向する、いわゆる北海道経営の基本方針に齟齬(そご)が生じていた。
 このような3県の地方行政事務の渋滞、3県と1局間の齟齬(そご)、連絡の欠如、費用の肥大などに対して、北海道行政の機構改革論が続出した。
 これらを受けて、太政官大書記官金子堅太郎は明治18年(1885年)7月に来道し実情を調査、現在の制度(3県1局)を廃止し統括機関として「殖民局」の設置を建議した。この改革案は受容れられたが井上毅の意見により、『北海道庁』と称することになった。そして、明治19年(1886年)1月26日、北海道庁の設置に伴い、3県1局は廃止されるのである。
 明治15年(1882年)2月、3県の設置、翌16年1月、さらに農商務省北海道事業監理局を設置し、本州並の府県をめざした3県1局時代も、成果らしきものを見るすべもなく、ましてや本州並の府県にはほど遠く僅か4年で終わりを告げたのである。
 先出、桑原真人(札幌大学教授)のレポートの「3県1局時代」のまとめでは、
 
 明治十五年から十八年まで『三県一局時代』
 <開発の特色> 士族階級に対する授産(直接保護)
 <資金の実績> 一、一八七万円
 <おもな施策> 士族移住の強化・移住士族取扱規則(明治十六年六月)
        ○開拓使の廃止により具体的な政策なし
 <人口の推移> 明治十八年 二七万六千人
        ・四年間で三万六千人の増加