[国内の情勢]

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 明治45年(1912年)7月30日、明治天皇の崩御により明治から大正に改元したことは歴史の流れから見れば偶然的なことに過ぎない。しかし、この時期、これまでとは違ったうねりが、国内で起こり始めていた。
 その1つは、いわゆる『大正デモクラシー』である。
 大正デモクラシーには広狭2つの概念規定がある。1つ(広義)は、大正時代全体を貫く普遍的概念を指す、すなわち、時代文化の諸分野(政治・経済・学問・教育・文芸・美術・風俗など)に共通する概念で、概括的に言えば「国家的な価値」に対して「国民的な価値」へ自立化という概念である。まず、政治の分野では「国家理想」に対して「国民感情」が自立化するといえよう。経済・産業の分野では「国の庇護から離れ、国家統制を極小化」し「資本」の自立化が進行する。学問の分野に於ても「アカデミズム」が国家に対する自立的価値として確立し「教養」の自己目的性を強調する教養主義の価値観がそれを促進する。いわゆる「大学の自治」が確立するのも大正期である。教育、特に初等教育の分野でも自由教育運動が展開される。そして、文芸という、本来非国家的活動をする分野が社会的に認知・承認され出版・ジャーナリズムの飛躍的な発達を基盤とし、職業文学者の社会的影響力が顕著に拡大したことも以上の諸現象と同じように意味づけ(自立化)できる。この文学者らの活動が諸分野の自立化を促進したことも見逃せない。
 これに対して、大正デモクラシーのもう1つ(狭義)の概念規定は、この時代の象徴的な政治的現象にその意義を限定する場合である。いわゆる大正デモクラシー運動や政党内閣制確立の過程と無産政党確立の過程を指す。
 日露戦争以降の藩閥・官僚政治を廃し近代的政党政治の確立と民主主義的改革を実現しようとした大正の思想・運動は、第1次(大正元年・1912年)と第2次(大正13年・1924年)の憲政擁護運動として高揚をみる。美濃部達吉の天皇機関説(国家を統治権の主体として、天皇は国家の一機関に過ぎないという明治憲法の解釈)、吉野作造の民本主義(官僚主義への対立概念、政権運用上民意を尊重すべしとの主張)がその指導的理念となり、政治的指導者としては、尾崎行雄、犬養毅が中心となり、元老、貴族院、軍部などの既成の特権政治勢力に対抗し、普通選挙制と政党政治の確立に向け広く活動がなされたが、それは基本的に天皇制の枠内での改良要求にとどまり、主権にかかわる民主主義を主張するものではなかった。運動の後期には無産政党運動が活発となり、労働運動、農民運動など各階級階層独自の潮流が輩出して、その分解と再編を促した。
 1924年(大正13年)の護憲3派(政党内閣の確立をスローガンとした立憲政友会、憲政会・加藤高明、革新倶楽部・犬養毅)による第2次憲政擁護運動は、革命思想を弾圧する立場をとり、治安維持法の制定を前提とした普通選挙制の実施にみられるように、明確に保守化し、大正デモクラシー運動の限界が端的に露呈する。
 
 その2つ目は大正12年に発生した『関東大震災』である。
 1923年(大正12)9月1日午前11時58分、関東地方に大地震が起こった。この地震のマグニチュード(M)は7.9、震源は相模湾の北西部と推定される。そして、その災害は歴史上我が国未曾有のものとなった。
 家屋倒壊率の最も大きかった地域は、湘南地方・三浦半島・房総半島南部であったが、震災は東京を中心に千葉・埼玉・静岡・山梨・茨城・長野・栃木の各県に及び、死者行方不明者を合わせると約15万人、全壊・半壊・消失家屋合計約71万戸にも及んだ。中でも首都東京の被害は最も大きく死者は6万人をこえた。これは主に122か所から発生した火災が原因と言われている。
 地殻変動は広い地域で起こった。東京都内の水準点を不動点として、大磯182センチメートル・葉山94センチメートル・油壺139センチメートル・館山157センチメートルの隆起が観測され、これに対して、東京の西の地域の沈降は激しく丹沢山地では約1メートルにも及んだ。相模湾の海底では最大沈降180メートル、最大隆起160メートルといわれている。地盤の水平移動は、相模湾を中心に時計回りの方向に認められ、最大水平移動は3.78メートルを記録した。山岳部では丹沢、伊豆、箱根などで断層ができ、山崩れが頻発し、いわゆる山津波が発生した。海岸部では津波も発生した。
 この関東大震災は、日本の心臓部である首都東京・国際貿易港横浜に壊滅的な打撃を及ぼし、我が国の政治、経済、社会、文化などに及ぼした影響は計り知れないものがある。特筆すべきは、地震発生によるインフラの壊滅と共に、人心の動揺が前年(1922.11.29読売新聞報道「朝鮮人虐殺」とそれを問題視する社会主義者・労働団体等の行動)の事件や動きなどを呼び起こしてか、「朝鮮人来襲」の流言が飛び交い、警察署も事実を誤認し厳重な取締体制を発令し、各地には在郷軍人・青年団・消防団などが武装し自警団を組織、推定では2千人を越す朝鮮人が殺害されたという。さらには、朝鮮人の背後には社会主義者、労働団体がとの流言が流れ、浅沼稲次郎らの指導者らが検挙されたり、大杉栄(平民社・無政府主義者)が憲兵大尉の甘粕正彦らに暗殺されるなど、この大震災を契機に、国民意識のナショナリズム・政治の右傾化・軍国主義が顕著に表れたといえる。そして、米国に端を発した(第1次世界大戦の特需に対する反動の)世界恐慌の余波をまともに被った我が国は、政府・財界・軍部が呼応し第1次大戦での利権を足掛りに大陸進出を強化し、やがて、太平洋戦争勃発への道を辿ることになる。