2、昭和恐慌と軍部の台頭

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 昭和の時代が年号の願いとは逆に、暗黒の時代へと突入した要因は様々あろうが、直接的な要因の1つは昭和恐慌である。
 昭和恐慌とは、1927年(昭和2年)の金融恐慌に始まり、1929年(昭和4年)の世界恐慌(1929年10月24日「暗黒の木曜日」にニューヨーク株式取引所で有名銘柄株の大暴落に端を発し世界経済を揺るがした大恐慌)により深刻化し、1930から1931年(昭和5~6年)にピークに達した昭和初期の一連の恐慌である。第1次世界大戦中、戦禍を受けず急激に拡大した日本経済は、大戦後、1920年(大正9年)の反動恐慌、1923年(大正12年)の震災恐慌などの打撃を受けながらも、インフレ的救済政策により辛うじて破綻を免れ昭和に入った。しかし1927年(昭和2年)、関東大震災後に乱発された震災手形の処理問題に関連し、企業の資産内容が極めて悪化していること(発端は、台湾銀行が鈴木商店に対し3億5千万円もの不良貸出していた)が明るみに出たため、銀行経営に対する不安が急速に広がり、金融機関の取り付け休業が続出した。この金融界のパニック状態(恐慌)は3月~4月の2カ月続いたが、4月末の支払猶予と日銀による特別救済融資の実施が功を奏し5月には恐慌もなんとか沈静化した。ところが、1929年(昭和4年)成立した浜口内閣(浜口雄幸総理・井上準之助蔵相)は、これを教訓に金本位制、しかも旧平価による金本位制に復帰するための極端なデフレ政策を実施し、1930年(昭和5年)1月から金解禁を実施した。これが裏目に出て前年に勃発した先述世界恐慌が日本にも波及し、金解禁によるデフレ政策と重なって日本経済は深刻な不況に見舞われ、銀行や企業の休業や倒産が続出し失業者が急激に増大し、総理は若槻礼次郎に替わる。この恐慌状態、デフレ政策・不況といった政情不安に乗じ軍部が次第に台頭し、大陸進出に活路を見い出だそうと1931年(昭和6年)9月18日、柳条溝の満鉄線路爆破事件をきっかけに関東軍が軍事行動を起こす、いわゆる満洲事変が勃発する。さらに12月には金本位制の維持が不可能となったため犬養内閣(高橋是清蔵相)は金輸出を再禁止、金本位制を廃止し、1932年(昭和7年)には何とか恐慌を脱出するが、それ以降、ファシズム台頭とともに日本経済は軍事経済化していく。
 以下、太平洋戦争に至る主な出来事(事件など)を記す。
 
〈2年〉第1次山東出兵(田中内閣による山東省居留日本人保護目的の出兵)〈3年〉3.15共産党検挙・特高警察の全国配置・治安維持法改正〈5年〉浜口首相、東京駅で佐郷屋留雄に狙撃される〈6年〉3月事件・10月事件(橋本欣五郎中佐らの桜会将校と大川周明ら右翼によるクーデター計画)〈7年〉血盟団事件(井上前蔵相暗殺される・三井財閥團琢磨暗殺される)・5.15事件(海軍将校と陸軍士官学校生徒に犬養前首相暗殺される、陸、海相将校らに同情の発言)〈8年〉国際連盟脱退〈9年〉ワシントン条約(列強の植民地と勢力範囲の分割協定)を廃棄〈11年〉2.26事件(皇道派青年将校22名が中心となり下士官、兵士1千400名を率い、斉藤内大臣・高橋蔵相・渡辺教育総監、岡田首相の身代わり秘書官らを殺害、鈴木侍従長に重傷を負わせ、真崎大将らの維新内閣の組閣を要求したクーデター)は、苦悩するデモクラシーに最後の止めを刺し戦争への道を開いた。〈12年〉蘆溝橋(ろこうきょう)事件・上海に戦闘拡大〈13年〉国家総動員法成立・中国全土に戦禍拡大(徐州・広東・武漢占領)〈14年〉ノモンハン事件(ソ連と同盟国の外蒙古と満洲国境で関東軍とソ連軍が戦闘)〈15年〉日独伊三国同盟締結・大政翼賛会創立〈16年〉12月8日真珠湾奇襲(米英蘭に宣戦布告)