4、大政翼賛会、その組織と運動

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 現在、政治の場、あるいは会議等で物事を決めるとき、よく「大政翼賛会のようになってはならない」と言われる。これは「民主主義、民主的に…」の反語として、戒めとして使われるのである。この大政翼賛会は昭和15年(1940年)10月、第2次近衛内閣によって結成されたが、同年7月近衛はその理念について次のような内容を新聞に発表している。
 
①新体制結成の目的は、一君万民の精神に基く万民輔翼(ほよく)の政治の実現である。
②新体制は、ナチスの全体主義、ファシスト独裁政治ではなく、肇国(国をはじむ・建国)の大精神に復(かえ)るものである
③新体制は憲法を犯すものではない。ただ、議会は天皇政治を翼賛するもので、政党によって政権を争奪するべきでないとの解釈が、真の憲法精神に沿うものであると理解する。
④国民精神総動員運動を発展的に解消、政治的実践力をもった国民運動組織を目標とする。
⑤政府・議会・軍部はこの組織外におき、参加は個人加入とする。
 
 翼賛会は政党(政治結社)ではなく、軍人・官吏も参加できる団体として組織する。大政翼賛会の名称は「天皇の政治をおたすけする会」の意味で、翼賛会の総裁が首相になるのではなく(と念を押して)、首相が翼賛会の総裁に就任する。そして、大政翼賛会の都道府県の支部長は、地方長官が兼任する。また、中央、地方に各界の職能代表の要素をもった「大政翼賛協力議会」を組織し、下情上通(かじょうじょうたつ)(下の国民の考えや状態を上の為政者に伝える)の機関とした。そして、昭和16年(1941年)2月、これらはすべて、政府に対立するものではなく「政府に協力する機関である」と、公式に声明された。
 新体制運動・大政翼賛会に対する近衛の理念に、笠信太郎・蝋山政道・大河内一男・亀井勝一郎・清水幾太郎・尾崎秀美・岸田国士ら自由主義・合理主義・左翼主義者、いわゆる「革新派」といわれる人々は、弾圧によって追いつめられた状態のもとで、これを最後の機会として積極的に協力しだした。国民のある者は、彼等を通して語られる経済体制の改革や官僚統制への批判に引きつけられ、地方ではそれに力を得た一部の新しい指導者が、政治の腐敗や社会の不合理にと取り組もうとする動きも見せていた。
 この理念、翼賛運動のわずかに残る革新性、あるいは期待とは裏腹に、第2次近衛内閣の組閣は、軍部の対外的積極方針と国内の政治革新の主張とを基本の柱とする、という矛盾する基本柱のスタートだったのである。とりわけ東条英機の陸相就任である。東条は満洲事変後、関東軍憲兵司令官、12年、関東軍参謀長となって以来中国戦線拡大を主張する主戦論者である。「カミソリ」といわれるほどの回転の早い頭脳と勤勉さを持ってはいたが、広い、思想的・政治的視野に欠けていた。この東条の登用は近衛内閣の命取りとなる。
 昭和16年10月16日第3次近衛内閣総辞職、翌日、東条に組閣の大命が下り、東条は陸相・内相を兼任し現役軍人(大将)として内閣総理大臣の任についた。そして、同年12月8日、真珠湾攻撃、米英蘭へ宣戦布告し、太平洋戦争(わが国では大東亜戦争と呼んだ)が勃発した。
 革新派の最後の望みも空しく、大政翼賛会は結局、軍部・右翼に指導権を握られ、総力戦争遂行のため挙国一致の組織となって行ったのである。
 この重要な担い手になったのが、国民生活に最も密着した下情上通の機関として、全国隈まなく存在した「隣組(となりぐみ)」であった。これは「五人組」とも呼ばれ隣り合った10戸内外を単位に組織し、その直接の上部機関に、村落では「部落会」都市部では「町内会」がある。隣組・部落会は毎月常会を開き、生活物資の配給、公債・戦争債の強制割当、貴金属・金物類はじめ各家庭が持っている様々な物資を軍需資材として供出すること、出征兵士の激励・見送り、防火防空演習、その他国民生活あらゆる面、すみずみにわたること、を決定し実行した。そして、これらを伝達するために「回覧板」が軒伝いに回された。
 
 トントントンカラリット隣組み/格子を開ければ顔なじみ/回して頂戴回覧板/知らせられたり知らせたり
   ・当時、歌われた「隣組の歌」である。
 
 政府はこの制度によって、地域の指導的人物、あるいはボス的人物を町会・部落会長として掌握し、国民ひとりも逃さず統制し動員することができたのである。これらの活動は、反戦的な思想・非合法活動者を監視するための働きともなっていた。
 国民はその居住地で「隣組(となりぐみ)」に組織されたばかりでなく、その職業を通じても、労働者は「産業報国会」、農民は「農業報国連盟」に組織され、言論・文筆業は「言論報国会」美術家は「美術報国会」等々、男女青年は「大日本連合青年団」、既婚の婦人は「国防婦人会」「愛国婦人会」これは後に「大日本婦人会」に統一、に強制的に加入させられた。この他、18歳から45歳までの兵役義務年齢にある者、すべては「在郷軍人会」に加入し軍事訓練を受けなければならなかった。
 政党を解散した代議士たちも、昭和17年2月に「翼賛政治体制協議会(翼協)」を成立、昭和17年5月20日には<翼協>を解散し「翼賛政治会」を創立した。その後「日本政治会」と名称を変更するが、戦争完遂のために軍事政権に協力を余儀なくされる議会となった。
 以下に、『翼賛政治会宣言』・『翼賛政治会綱領』を記す。
 
翼賛政治会宣言
 東亜の安定を確保し以て世界の平和に寄与するのは、畏くも大詔に明示し給うところなり、帝国は今や古今未曾有の世界動乱に際し、大東亜戦争完遂に邁進す。洵に曠古の大業なり。皇師一たび出でて、赫々の戦果は世界を震撼せりと雖も、大業の前途は尚遼遠なり。すなわち国民の政治意識を昂揚し、挙国的政治力を結束し、次て国家の総力を発揮し、戦争目的を貫徹せざるべからず。惟ふに此の戦時下敢て総選挙を施行せられたるは、清新強力なる議会の確立を庶幾せられたるものにほかならず。而して総選挙の結果は滂湃(ほうはい)たる国民熱意の嚮(むか)ふところ明かにせり。これ正に一挙翼賛政治体制を確立して、必勝の挙国態勢を完成すべきの秋なり。
 翼賛議会の要は清新なる政治力を以て派閥抗争を一掃し、一地一職域の利害に拘らず、真に国家的見地に立ち公議公論の府として政府に協力するにあり。議会翼賛の大道また実にここに存す。
 本会は国民各界に亘り政治翼賛の総力を凝集し、以て国政運行に協力せんとす。而して翼賛政治体制の確立は、挙国的国民運動の基礎の上に立たざるべからず。因て本会は大政翼賛会と緊密なる連繋を保ち、相倶に大政翼賛運動の徹底を期せんとす。(以下省略)
 
翼賛政治会綱領
一、国体の本義に基き挙国的政治力を結集し、以て大東亜戦争完遂に邁進せんことを期す。
一、憲法の条章に恪遵(かくじゅん)し翼賛議会の確立を期す。
一、大政翼賛会と緊密なる連繋を保ち、相協力して大政翼賛運動の徹底を期す。
一、大東亜共栄圏を確立して世界の新秩序の建設を期す。
 
 以上の宣言、綱領からも理解されるように、翼賛政治会の使命は、国民が総力を挙げて戦争に協力できる政治的体制をつくることにあり、そのために、政府・軍部に協力し大東亜戦争の正当性を、選挙・議会を通し確立することにあった。
 当然のごとく地方議会・市町村選挙にも翼賛会の力が及んだ。
 
経済界の統制  この「政治新体制」と並んで「経済新体制」も編成された。それは、産業と金融のすべての部門に「統制会」を組織し、国家の総合計画のもとに全経済活動を戦争遂行へと動員することであった。それぞれの「統制会」は、その業種について独占的な地位をもつ巨大資本が、その部門を統制し最大の利益を吸い上げる機構でもあった。
 ここに、日本独特のファシズム体制が完成され、為政者はこれによって、世界相手の大戦争に国民を総動員していったのである。