終戦の日から1月以上も経った9月の下旬、戦後初めての村会が開かれ、混乱する尻岸内村政について真剣な話し合いがなされた。
当時の村長井上悟は開会の劈頭、「終戦後の新しい事態に対処する方針については、新しい性格を持つ政府の樹立を見るまでははっきりした方向を掴めない。当面は衆議を尽くして村行政の最善を尽くしたい」と、沈痛な面持ちで挨拶をした。その日の村会では、悪化する食料事情の需給対策・村有未利用可耕地の解放・衛生予防対策・薪材払下げ等、村民の生活に直接かかわる重要な問題について話し合われた。
書類の焼却
戦争遂行に協力し指導した地方の官庁や学校は、敗戦とともに進駐して来る米軍からの処分に、恐れや不安を感じた。北海道庁では早速これに対処し、支庁を通じて町村役場に軍事関係の書類など一切を焼き捨てるように指示した。
尻岸内役場も支庁から指示を受けた日(終戦の翌日)から、これはと思われる書類(軍人名簿・軍事関係綴りは勿論、大政翼賛会・勤労動員・軍用物資生産書類・軍馬などの畜産関係書類等)を燃え盛る炎のなかに次々と投げ込んでいった。さらには学校へ指示し、奉安殿(奉置所)に収められている教育勅語・各種勅語・御真影(天皇、皇后両陛下の写真)など皇室関係物を集めて支庁へ返還した。
奉安殿の撤去
明治憲法下の天皇の思想(意思表示)である勅語・御真影を収めた、軍国主義教育を支える最も重要な「形」であった奉安殿(奉置所)も、昭和21年(1946年)一斉に撤去された。この建物はその性質上、校区の人々や篤志家の寄付をあおぎ高額な予算で石造り銅葺きなど、各校競って立派なものを建造しており、村財産目録によれば、僅か1坪の規格にもかかわらず1棟2戸の教員住宅よりも高額なものさえあった。この建物に対しては、児童生徒は登下校の折には敬礼を強要され、その敷地を汚すことなどは論外で、遊ぶことさえ許されぬ神聖な場所であった。
奉安殿の撤去と同時に、大方の学校の校庭にあった二宮金次郎(尊徳)の銅像(戦時期の金属供出により陶製やコンクリート製に代わっていたが)も取り壊された。ただしこれについては当局の指令だったのかどうか、不確かである。管内には現存する学校もあることから見れば、二宮像の撤去はそれぞれの自主的な判断であったと思われる。
『昭和20年(1945)樹立した村財政計画』