七飯町、7軒の水田農家

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 この指導を引き受けてくれたのが七飯町大中山地区の十倉綱夫(大川)、坂本繁、富原孝一、吉野義夫、柴田正幸(以上大中山)、菊谷利秋、成田勝敏(以上中島)の諸氏である。これらの人々は七飯町でも有数の篤農家であり、水田耕作の熟練者であった。7氏は、トラックに農具や機材を積み、大型バスに田植えの女性達を乗せ、ようやく通行可能になった恵山、鉄山線の砂利道を何度も往復したという。この中の1人、富原孝一氏は、当時を振り返り次のように述懐している。
 
 作付けした品種は、銘柄米に指定された事もある『ともえまさり』と『まつまえ』で、当初予想したより気象条件はよく、栽培に支障をきたすようなことはなかった。また、土壌も用水も比較的よかったが、表土の腐蝕土の層や粘土層が薄く、耕うん機を入れると下層の砂利が表土に上がり、水が抜けてしまう田もあった。これらの解決のためには客土と、田によってはビニルフイルムを敷く必要があった。(実際にフイルムを敷いた)これらの条件さえ整えば、反当たり6俵の収穫(10アール当たり360キログラム)は可能であったと思う。ただ、どうしても、自分達の水田(土地)でないという気持ちからか、力が入らなかったのと交通の不便から、思ったとおりの収穫を上げることができなかった。仲間の内では、この水田を購入したいという希望もあったが、土地の利権者が多く交渉が難しいということから諦めたのが本音である。

川上地区の田植え風景


同 稲刈風景


川上地区の農地
昔ながらの鋤(すき)(踏鋤(ふんずき)で畑を耕している春の風景
トウキビの切り株が残る秋の風景 手前は発掘されたレンガ(川上レンガ製造跡地)