東本願寺の開拓出願

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 政府は明治元年以来北海道開拓の為に役所を新設し官吏を任命したのであるが、何分にも維新怱忙の際であり、殊に徳川方並びにその残党討伐の為め多額の軍費を費消せる直後の事とて、政府の財政は著しく窮乏しており、本道開拓に十分な資金を供給する事頗る困難なる状態にあった。茲に於いて東本願寺は大勇猛心を以て国恩報謝の為めに、明治2年(1869年)6月5日、北海道開拓を政府に出願するに至ったのである。
 出願の要旨は「新道切開・農民移殖・教化普及」の3重点に在った。
 
 今般蝦夷地御開拓の御主意御下問有之候由奉拝承候。然る処私門末の儀は、従来松前並に蝦夷地に五ケ寺掛所取立、出稼の人数是までも教導仕居候処、日増皈依の者有之候。就ては蝦夷地の義は周囲のみ通路有之、山中一切道筋無之、何分不自由之地に御座候間、為冥加如何様の御奉公も可仕候得共、差当り新道切開、石狩、久摺、十勝之深山も追々四通八達の域に相成候様致し、且有志の輩は新開村落移住為致、彼地土人不及申、諸方より出稼之者も異教に流不申様仕、報御国思度奉存候、以上
   (明治二年)六月五日            本願寺東門主使
 弁事  御 役 所
 
 この出願には本山の坊官(門跡寺院の執事)たりし下間頼一(大蔵卿)同頼稼及び川那部三郎兵衛、浅川五郎八等が東上奔走した。又、法嗣現如上人も2年8月東上御参劃相成ったのである。