鉄道路線を持たない尻岸内村にとって、唯一の交通機関は函館乗合自動車であった。このバス業界も戦争の壊滅的な痛手を大きく受けた。
戦時下、すべてが軍事優先で、下海岸道路唯一の函館乗合自動車も同様、ガソリンの配給が乏しくなり、やむなく代燃装置(ガソリンに代わる木炭などを燃やす装置)を取付、原料のゴムが不足でタイヤ・チューブも新品はなくつぎはぎだらけ、部品交換もままならず整備士の苦心の修理でなんとか運行している実態で、住民の要望には到底応えられるものではなかった。それでも戦時中は我慢をした。やむを得ない用事があれば徒歩で函館まで出掛けた。
戦時下の昭和18年、函館乗合自動車の保有車輌は54台であったが、終戦の20年には52台、翌21年には43台に減っていった。修理も不能となったのであろう。
終戦と同時に食料難が襲い、人々は食料を求めて買い出しに出かけなければならなかった。農村へ向かう列車はすし詰め状態、それでも乗車券を手に入れた人は幸運であった。国鉄は何とか走っており、食料の買い出しは遠く上川や十勝にまでも及んだ。
尻岸内村の人々の場合は、函館までのバスに乗ること自体が大変であった。車輌不足からの間引き運転、悪路に加えてバスの故障、時間どおりの運行など殆どなかった。住民に代わり、役場職員がオンボロトラックを仕立てて食料の買い出しに出かけることもあった。