昭和32年10月23日、臨時株主総会で函館バスは経営の改善・近代化をすすめるため東京急行電鉄株式会社(東急)の系列会社として再発足した。
この年の経営改善について、斉藤忠社長は先出の函館バス20年の歩みの中に「給料・手当の未払い、車輌手形の棚上げ、買い上げ代金の不払い、税金の滞納、銀行の返済不能等、悪材料山積の中で、その対策に眠られぬ夜も屢々だった」と吐露し、さらに「昭和三十三年以来、これらの悪材料(未払い・税金・棚上げ手形など)を、まず一掃することに専念し誠意を示し、経営の基本を予算即決算の制度に改め運収の増加を図った。そして、そのために新たな路線の獲得、旧路線の改廃、車輌の整備、利用者へのサービス改善に徹し事業を軌道に乗せるよう心掛けた。その結果、各方面の信頼回復をなんとか得ることができるようになった」と記している。そんな中で、34年3月「相互バス株式会社」はバス事業と、遊船事業の施設を「函館バス」に譲渡し、下海岸路線は再び1社となった。
函館バスは、その後も東急の支援を受け路線を毎年免許申請、延長した。38年(1963)の函館バス路線図では、渡島・檜山の主な道路すべてを網羅している。これに併せて、運営とサービスの充実をはかるために路線の中核地、森・八雲・鹿部・松前などに次々と営業所を開設し、以降函館バス株式会社は、交通運輸業界の全国的な好況の波に乗り発展の一途をたどる。