3、米教育使節団の勧告

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 この課題解決のために、マッカーサー元帥(連合国軍総司令官)は、自国に教育使節団の派遣を招請した。マッカーサーはこの要請にあたり、「アメリカの有名な教育者」の派遣を希望したという。これを受けた米国では、「教育改革の提案にあたる使節団の派遣は本来、軍がなすべきではない」という重要な原則が確認され、以後、一切の事務は国防省から国務省へ移ったのであった。
 終戦に伴い、戦時教育体制から平和体制への切替えと、軍国主義及び極端な国家主義的な思想・教育の払拭を主眼とする戦後処理の諸措置が、占領下において急速かつ精力的に行われ、戦後の教育改革を積極的・包括的に方向づけたのは、昭和21年3月に来朝した第一次米国教育使節団の勧告によるところが、最も大である。
 この使節団の来日に先立ち総司令部(GHQ)は日本政府に、使節団に協力する日本側教育家の委員会を構成することを要請、それとともに使節団の研究問題として、①日本における民主主義教育、②日本の再教育の心理的側面、③日本の教育制度の行政的再編成、④日本の復興における高等教育、以上の4項目を示した。また総司令部は使節団のために、日本の教育の歴史、現状および総司令部の見解を述べた「日本の教育」をまとめ、その他、多くの関係資料を用意した。時宜を得たこれらの受け入れ態勢も功を奏したといえる。
 使節団は到着後、連日の会合に日本側委員を加え、関西地方や実際の教育現場を視察するなど精力的に活動し、調査・検討の結果をまとめ、3月末、連合国軍総司令部(GHQ)に報告した。これが「第一次米国教育使節団報告書」である。
 総司令部は、同年4月7日これを発表するとともに、覚書を付し報告書の趣旨を全面的に承認し、今後の日本の教育改革の路線をここにおく意向を表明した。
 「第一次米国教育使節団報告書」は、前書、序論につづいて、
 
 ①日本の教育の目的および内容、②国語の改革、③初等・中等学校の教育行政、④教授法と教師の教育、⑤成人教育、⑥高等教育
 
 以上の6章からなっており、全体として日本の過去の教育の問題点を指摘しつつ、これに代わるべき民主主義的な教育の理念、教育方法、教育制度を明らかにしたものである。 以下、その概略を記す。
 民主主義的な教育の基本は、個人の価値と尊厳を認めることであり、教育制度は各人の能力と適性に応じて教育を与えるよう組織すべきであって、教育の内容・方法および教科書の画一化をさけ、教育における教師の自由を認めるべきことを述べている。
 六三三制と男女共学 このような基本理念の上に新しい学校制度として、六・三・三制と、特に『六・三制の義務制』と、その『無月謝』、『男女共学』を勧告している。
 
大学・教員養成大学  高等教育については、必ずしも4年制大学に統一化することは勧告せず、高等教育の門戸開放とその拡大を主張し、また、大学の自治尊重と高等教育へ一般教育を導入することを述べている。教員養成については従来の形式的教育を批判し、新たに4年制課程の大学段階の教員養成を勧告している。
 
教育委員会  初等・中等教育の教育行政については、中央集権的制度を改め、また、内務行政から独立させ、新たに公選による民主的な教育委員会を都道府県、市町村に設け、これに従来中央行政官庁に属していた人事や、教育に関する行政権限を行使させる、地方分権的制度の採用を強く勧告している。
 
PTA(父母と教師の会)  社会教育については、民主主義国家における成人教育の重要性を強調し、PTA(父母と先生の会)、学校開放、図書館、その他社会教育施設の役割を重視するとともに成人教育の新しい手段・方法の意義を述べている。
 
ローマ字  国語の改革については、教育改革にとって基本的であり、緊急であるとして、漢字の制限、かなの採用、ローマ字の採用の3つを国字改良案としてあげ、国語改革に着手するよう勧告している。
 
 以上が、米国教育使節団報告書の概要である。報告書は、短期間に分担執筆されたためか、章により内容に精粗の差があり、また、具体的な提案もあれば考え方を述べた、やや抽象的表現の勧告もある。全体としてはそのまま改革案となりえないが、従来のわが国の教育上の問題点を鋭く指摘し批判し、民主主義・自由主義の立場から教育のあり方について懇切に述べている点において、わが国教育改革の指針となったことは確かである。
 なお、米国教育使節団に協力するため設けられた日本側教育家の委員会は、使節団帰国後任務を終了し解散したが、(この委員会は)発足当初から、日本の教育改革について文部省に建議する常置委員会となることが覚書で示されていた。
 昭和21年(1946)8月内閣に「教育刷新委員会」が設けられたが、この新委員38人中20人が、前記の日本側教育家の委員で実質的にはこの委員会の改組拡充であった。