この青年訓練所は、実業補修学校を卒業した男子を対象に「軍事教練」の徹底を狙いとして設立された教育機関といって過言ではない。すなわち『青年訓練所令』第1条には、「青年ノ心身ヲ鍛練シテ国民タルノ資質ヲ向上セシムル」とあり、教練・「軍事教練」が400時を最低とすると定められている。これは訓練所の全授業時数、4年間で800時間の50パーセント、また、教練の指導員が北海道長官の委嘱による在郷軍人であることなどから、義務教育の補習を主とした実業補習学校と青年訓練所の並立に問題が生じ、当初から統合案がでており、結局、昭和10年(1935)統合、青年学校が設立される。
この青年訓練所の実践、特に軍事教練の資料などは敗戦と同時に焼却されたものと思われ、残された記録は非常に少ない。
以下、『尻岸内町史』に記述されているいくつかについて記すこととする。
青年訓練所全道大会への参加
「昭和七年七月十日、函館市柏野(現在の函館競馬場)の原野において、青年訓練所全道大会が開催され、尻岸内村から一〇六人(主事四人、指導員九人、 生徒九三人)が参加し大いに士気が上がった」
なお、査閲については教練(軍事教練)の成果が主であったとおもわれる。
青年訓練所の実態
*昭和12年度は青年学校の統計(昭和10年8月1日より青年学校となる)
青年訓練所の実態
*昭和10年8月以降は青年学校