(4)天皇の神格化

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 また直接に人民に対し「天子様は天照皇太神宮の御子孫様であらせられる」と、天皇の神格化についての宣伝教育をしている。この実例であるが、慶応4年(明治元年・1868年)3月の九州鎮撫総督の諭書には次のように述べられている。「此日本ト云ウ御国ニハ、天照皇太神宮様カラ御継ギ遊バサレタ所ノ天子サマト云ウガゴザッテ、是ガ昔カラチットモ変ワッタコトノ無イ此日本国ノ御主人様ジャ。所ガ七八百年モ昔カラ乱世ガ続イテ……北条ジャ、足利ジャト云ウ人ガ出テ来テ、此日本中ヲヤクタイニ(益体)シタガ、終(しまい)ニハ天子サマ御支配遊バサレタ所ヲ皆奪イテ己ガ物ニシタデアルナレドモ、天子サマト云モノハ、色々御難渋遊バサレナガラ、今日マデ御血統ガ絶ズ、ドコマデモ違イ無キ御事ジャ。何ト恐レ入ッタ事ジャナイカ(原文のまま)」諭書は、なぜか方言で綴られている。庶民に受け入れやすいようにと考え、お国ことばで表現したのか。
 また、明治2年2月、戦乱(戊辰戦争)の後に苦しみ、各所で一揆を起こした人民をしずめるために政府が出した「奥羽人民告諭」にも次のように述べている。
 「天子様は、天照皇太神宮様の御子孫様にてこの世の始めより日本の主にましまし、神様の御位正一位など国々にあるもみな天子様よりお許し遊ばされ候わけにて、誠に神さまより尊く、一尺の地も一人の民もみな天子様のものにて日本国の父母にましますのだ」
 人民は天子様とは何者なのか知らない(上様・公方様、将軍様は知っている)ので、政府は正一位稲荷大明神・神様も天子様が任命すると教えて、その尊さを教えてやらなければならなかった。
 これらの告諭の、日本は天照大神が開いた国で、大神の子孫が天子様として代々日本を治め、“一尺の地も一人の民もみな天子様のものだ”という趣旨は、明治元年10月の、「京都府下人民告諭大意」にも、おおいに力説強調されている。
 こうして政治的君主としての天皇よりも、神様の子孫である天子様という宗教的・神的権威に対する信仰的な畏敬と恭順がつくりだされ、それと一体のものとして神道を国教化していこうとしたのである。