[廃仏毀釈]

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 神道国教化という政策・行動の中で政府が驚き、地方によっては反政府暴動にもなりかねない(実際、三河や越後では暴動が起きた)事態が発生した。廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)である。それは明らかに秩序の破壊であり、宗教の改革を逸脱した闘争であった。
 本来政府の意図は、神仏分離であり廃仏毀釈ではなかったが、多年、仏教に圧迫を受けてきたと考えた神職たち等によって、廃仏の嵐が各地で吹きまくるのであった。
 廃仏毀釈の嵐は明治元年から2,3年にかけて全国に吹きまくったが、明治3年10月、政府が民部省に寺院寮をもうけた頃から沈静化の傾向がみえはじめ、さらに同4年7月、仏教の衰退がキリスト教の興隆を招く条件となりはしないかとの恐れから、政府は仏教を積極的に保護、同5年(1872)3月、教部省をおき教導職を設け神官や僧侶を採用してから、ようやく直接的な廃仏毀釈は後を絶った。
 多くの仏教宗派は廃仏毀釈に対して無力であったが、真宗勢力の強い三河や越前では維新政府に対する庶民の不満と結合して一揆が起こった。しかし、これらはいずれも廃仏毀釈への抵抗としては一般化しなかった。教団の封建的性格、寺院僧侶の堕落に対して、廃仏毀釈はむしろ仏教覚醒の好機であったともいえる。事実、日本の近代仏教は、これをテコとして形成されていくことになったのである。
 北海道の神社調査は、第1節、5、(1)菊池重賢の『壬申八月巡回御用神社取調』に記したように、明治5年7月開拓使の命令で、札幌神社権宮司兼開拓使11等出仕菊池重賢が北海道神社改正取調を実施したのが最初である。したがって、内地の府県のように廃仏毀釈の嵐は起こらなかったといわれているが、旧松前藩(津軽・福島・檜山・爾志の各郡)、のちの館藩は廃藩置県により明治5年9月まで館県−弘前県−青森県に繰入れられ、内地の府県と同様、神仏分離・廃仏毀釈の洗礼を受けている。
 その余波の一つといわれる『円空上人作観音尊像』が、函館市船見町の称名寺の宝物庫に保存されている。その説明によると、像は、「もと吉岡村(現福島町)の観音堂にまつられていたが、明治の排仏運動で放出され海中に捨てられて、漁師の網にかかり、信者の手を転々として最後、住吉幸衛氏が護持し、昭和三十三年、当寺に寄進した……以下略」とある。