足達家は戸井郵便局の草創期から、父子二代に亘って、四十三年間戸井の通信事業に献身した家である。
戸井郵便局草創期の局長、足達惣吉は、羽後の酒田で代々商業を営んでいる家に生れたが、長ずるにつれて保守的な気風を好まず、雄斗を抱いて奮然(ふんぜん)として北海道に渡り、函館の豪商工藤弥平に見込まれて、その支配役を勤めていたが、故あってこれを辞した。
これより先、慶応元年(一八六五)(十二月二十三日)妻トワ子との間に男子が生れ、健次郎と名づけた。工藤弥平の支配役をやめた時には健次郎は六才であった。
惣吉は期するところあり、僅か六才の子を連れて、明治四年(一八七一)戸井村に移住した。この頃の戸井村は交通不便な寒村であった。惣吉は函館で蓄えた金を資金として、鰮漁を営み、困苦辛酸をなめてその経営に努力し、澣く一家生計の基礎を礎いたのである。
然し惣吉の苦悩は、僻村のため我が子健次郎に十分な教育を施すことのできないことであった。然し健次郎は幼ない時から自学自習し、長ずるにつれて家業の手伝いをし、鰮漁に従事して辛酸をなめた。
惣吉は戸井村の交通不便なことを深くなげき、家業の余暇には全力をあげて交通々信発達の運動をした。官は惣吉の熱意に感じ、明治八年戸井村に郵便取扱所を設けることにした。この郵便取扱所の仕事を池田彦九郎にやらせていたが、明治十年(一八七七)郵便取扱所が五等郵便局になり、無学な者では手に負えなくなり、官のしばしばの要請で取扱役に就任した。漁業をやめた惣吉は、専心郵便事業に力を注ぎ、かたわら村民の啓蒙につとめたので、大いに村民の信用を博し、村総代に推挙されたり、学務委員に任命されたりして、戸井村の発展に尽力したが、明治十九年(一八八四)六十三才で病歿した。
後任局長がきまるまで、初代戸長飯田東一郎が、戸長役場内で郵便事務を取振っていたが、惣吉歿後三ヶ月日の明治十七年十一月二十七日、惣吉の長男健次郎が僅か十九才で四等郵便局長に任命された。健次郎は僅か十九才で郵便局長を勤めるくらい独学で力をつけていたのである。
若くして郵便局長の重職に就いた健次郎は、父の名を辱(はずか)しめまいと、局務に専念して村民の信頼を得た。健次郎は資性温厚篤実(おんこうとくじつ)、人に対する応待は恭謙(きょうけん)で、且職務に忠実なことが官の信用を博し、明治三十年(一八九七)十二月十一日、戸井郵便電信局に昇格してもそのまま局長に任命された。この間に前後七回も官の表彰を受け、大正六年(一九一七)十月、五十一才の時、従七位勲七等に叙せられた。足達局長は大正八年(一九一九)一月二十八日五十三才で退職した。
実弟足達敬太郎が戸井郵便局の局員となり、兄の局長を助けて局務に精励し、兄弟仲睦しいことも村民賞讃の的であった。敬太郎は明治十二年(一八七九)十二月十四日生れで、郵便局をやめてから、昭和六年(一九三一)九月、六十三才で、一級町村時代の第十三代戸井村長に就任し、昭和九年(一九三四)二月に退任した。
現在水産加工業を営み、弁才町の町内会長を勤めている足達広は足達家の後裔である。