明治十五年(一八八八)小安小学校が創立され、明治十七年(一八八四)白浜学校を併合し、明治三十四年(一九〇一)戸井小学校が日新小学校と改称され、瀬田来小学校を併合し、日新小学校、小安小学校、汐首小学校の三校となり、明治二十五年(一八九二)日新小学校の鎌歌分校が設置され、後に独立して鎌歌小学校となり、四校となった。
開拓使時代の学務委員は開拓使から任命されていたが、明治十五年(一八八二)二月八日に開拓使が廃止されてからは、函館県から任命された。
明治三十一年までは記録が不備のため、その一部分よりわからない。旧戸井村の分の記録は若干あるが、旧小安村の分は全然記録がないので不明である。
学務委員は官から任命され、学校教育については相当な権限をもっていた。執行の責任はもたせられていなかったが、現在の教育委員に似た性格をもっていた。
明治三十三年までは村内の有志、有識者が任命されていたが、明治三十四年からは日新・鎌歌・小安・汐首の各校長も学務委員に任命されるようになった。
定員は十名で、明治三十四年から各学校の校長が四人、村内の有識者六名となった。任期は二ヶ年であったが校長よりの委員は、転任すればその後任の校長が委員に任命された。
明治十三年から大正二年までの戸井の学務委員は次の通りである。
[学務委員]
備考○大正二年以降は不明
○同一年度に同一学校の校長が二名記されているのは、年度途中に転任して交替したものである。
○各校長は在職中連続して委員に任命された。鎌歌小学校の長尾校長は明治三十四年から、汐首小学校の藤伊校長は明治四十年から退職するまで学務委員に任命されたのである。