[教育委員会の沿革]

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 昭和二十二年三月三十一日、教育基本法並に学校教育法が公布され、従来の教育諸法令が全面的に廃棄された。学制も六・三・三・四制が実施されるようになり、六年制の小学校と三年制の中学校が誕生し、九年間が義務教育になった。旧制中等学校はすべて三年制の高等学校になり、普通課程と職業過程の高等学校に別れた。新学制の中学校と旧制中学校とを区別するために、新学制の中学校を当分の間、新制中学と呼んだ。又従来の高等学校、専門学校並に旧制大学が一挙に四年制の新制大学に切り替えられた。
 昭和二十七年十一月一日、教育の民主化を目標として、全国の都道府県並に市町村に、教育委員会が設置され、教育委員の公選が行われた。
 教育委員会発足当時は、校舎もその他の施設々備もなく、机や椅子もないという状態の中から出発した新制中学校の充実が、市町村教育委員会の大仕事であった。
 戸井村では、第一回目の教育委員の公選には、吉田富次郎、吉崎岩吉、永川重作、奥野喜好が選ばれ、議会からは森富雄が推薦され、互選の結果、委員長には吉田富次郎が選ばれ、教育長には石黒武が助役兼務で任命された。このようにして、戸井村最初の教育委員会が発足したのである。
 昭和三十年の教育委員改選には、奥野喜好、永川重作、山田由蔵、松井八郎が選ばれ、議会からは岩館兵吉が推薦され、委員長には岩館兵吉が選ばれ、教育長には堀田久善が任命された。堀田久善はその後教育長として幾度も再任されて現在に及んでいる。
 その後政府は、教育委員の公選制を廃止して任命制に改めることを企図し、全国的に賛否両論の激しい中で、公選制廃止が国会できまり、昭和三十一年十月一日から市町村長による任命制になり、議会選出の委員がなくなり定員が四名になった。戸井村では任命制になって岩館兵吉が退任したので、委員長には永川重作が選ばれた。
 昭和三十二年には、奥野喜好が委員長に選ばれ、昭和三十三年には松井八郎が退任し、後任として飯田弘一が任命され、委員長には山田由蔵が選ばれた。
 昭和三十四年には山田由蔵、奥野喜好が退任し、後任として小野武男、境市正が任命され、小野武男が委員長に選ばれ、昭和三十六年まで同じ陣容で継続した。
 昭和三十七年、飯田弘一が委員長に選ばれ、翌三十八年境市正が委員長に選ばれた。境市正は昭和四十六年九月三十日に退任するまで、連続七ヶ年委員長に再選された。昭和三十九年、公選、任命時代を通じて十二年間委員を歴任した永川重作が退任し、後任として岩館兵吉が任命された。
 昭和四十六年九月三十日付で、十年間委員を歴任した境市正が退任し、後任として十月一日付で佐々木斉が任命され、飯田弘一が委員長に選ばれた。
 以上が昭和二十七年、教育委員会発足当時から現在まで二十年間の戸井町教育委員会の委員交替の概要である。

現教育委員


教育委員会職員

 戦後アメリカの教育制度に倣って六三制を実施し、昭和二十七年に五里霧中という状態で設置された教育委員会制度も、二十年の歳月を経て軌道に乗り、戸井町の教育行政上に大きな役割を果している。
 次に戸井町教育委員会の委員会構成の変遷を掲げる。

教育委員会構成の変遷一覧表


教育委員会の事務局機構(昭和四六年度)