五、婦人団体

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 日清、日露戦争から太平洋戦争中の地域婦人会は、愛国婦人会、国防婦人会などの名称で、当時の国策や戦争に協力することを強制され、太平洋戦争末期には、敵機空襲の防空活動に駆り出され、敵の本土上陸に備えて、竹槍を持たせられて、竹槍訓練を全国津々浦々の婦人たちが強制されたものである。
 太平洋戦争終結後、この婦人団体が解散させられ、戦後の混乱がおさ(・・)まってから、自主的に民主的な団体として新しい形の婦人団体が各地に結成されるようになった。
 
 1 地域婦人会の誕生
 終戦後戸井町に始めて誕生した地域婦人会は、汐首地域に結成された「五月(さつき)婦人文化会」である。この会は、会員二十名で結成され、会長には巽一枝が選ばれた。
 これに次いで昭和二十四年四月に結成されたのが「戸井主婦の会」で、当時会員二四〇名で、会長には村田よしゑが選ばれた。戸井主婦の会は村田よしゑ、寺西キミヱ、池田ハナ、石黒サダ等が発起人になって結成したものでである。
 この会は村田よしゑが初代会長となり、その後二代寺西キミヱ、三代野呂ミツヨ、四代小野初枝等が会長となり現在まで継続している。
 戸井主婦の会は、地域集会、研修会、講習会、講演会、他町村婦人団体との経験交流会などを行い、地域活動にも力を入れ、青少年の愛護育成、各種の奉仕活動に積極的に取り組んで現在に及んでいる。
 戸井主婦の会結成二年後の昭和二十六年には、二見、原木地域五十八名の会員をもって「原木婦人会」が結成され、初代会長には佐々木タケが選ばれた。
 昭和三十一年には、釜谷地域に、会員一三六名をもって「釜谷婦人会」が結成され、初代会長には酒井トシが選ばれた。
 汐首地域の「五月婦人文化会」が、昭和二十九年に「汐首婦人会」と改称され、会長には松島ミヨが選ばれて再発足した。この時は会員が八五名であった。
 
 2 漁協婦人会の誕生
 昭和二十六年から、各漁業協同組合が、上部機関の指導により、購売事業の推進・貯蓄運動の実施・販売事業への協力・生活改善運動の推進等を目的として、各単位漁業協同組合毎に漁協婦人部が結成された。
 各漁協婦人部の結成状況は次の通りである。

[漁協婦人部の結成状況]

(註)戸井西部漁協婦人部は、貯蓄運動の実施を主眼とし、その名称を月掛貯蓄組合とし、区域内の釜谷、汐首、瀬田来の三地域にそれぞれ貯蓄婦人部を設置した。
 
 3 戸井村婦人団体協議会の結成
 昭和三十五年五月、教育委員会の呼びかけによって、村内婦人団体長会議が開かれ、協議会の結成について討議した結果、全団体が賛意を表したので、翌昭和三十六年二月二十八日に「戸井村婦人団体協議会」が結成され、初代会長に戸井主婦の会々長寺西キミヱが選ばれた。(二代野呂ミツヨ・三代境すゑ)
 結成当初は教育委員会の指導助言を受けながら会の運営に当っていたが、その後活動が活発化するにつれ、自主的に運営するようになり、各婦人団体相互の連絡協調、経験交流を積み重ねながら、単位団体の民主的な婦人活動へと発展向上することに貢献(こうけん)している。
 
 4 各婦人団体の現状
 最近の町内各婦人団体の活動は、急激に変貌(へんぼう)しつつある社会情勢に対応するために、家庭経済の問題、健康管理の問題、生活の合理化、趣味の学習等に真剣に取り組み、昔の婦人団体活動と比較すると、著しく活動内容の領域が拡大しつつある現状である。これに関連して、指導者自体の考え方、運営方法が保守的であり、マンネリ化しては、この現状には対応できないことが痛感される。
 
 5 「若妻会」の誕生
 従来の婦人団体の会員は、家庭の主婦が大半を占めている。各婦人団体は「嫁と姑」のうち、殆んど「姑」が会員で、会員が老令化している。
 社会の変貌に伴い、最近では町内でも「嫁」の立場にある婦人たちが「若妻会」を結成し、将来の生活設計・民主的な家族関係・計画産児・育児・衛生・乳幼児の躾等、新しい時代に即応するための学習に真剣に取組んでいる。
 戸井町内の婦人団体及び若妻会の組織状況は次の通りである。

昭和四十七年度婦人団体組織状況


昭和四十七年度若妻会組織状況