「附」大宣寺の記録

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「附」大宣寺の記録
西暦年月日事蹟
一九一〇明治四三、七、一八客殿新築、庫裡増築、模様替工事着工。明治四五年一月、新築出願。
同年五月、落成。
大正二年(一九一三)六月一二日竣工届出。
一九一二明治四五、七境内地を八九〇坪と訂正、境外地を追加申請し、許可
建物、本堂五間に六間、客殿三間に六間。
境内、八九〇坪
檀家、一二四戸―二〇〇戸
本尊阿弥陀如来、高さ二尺六寸五分
この本尊阿弥陀如来像は、函館別院輪番、荒木源理師が京都の某店から
購入したものを、大宣寺開基、寺西大宣師が譲り受けて安置したものである。
この仏像は曽て比叡山延暦寺において信仰の対象になっていたもので、
千年の歴史を経たものと伝えられている。この仏像は、明治三四年
(一九〇一)一〇月九日、開基大宣師が代価三五円で譲り受けた。
大宣寺の創建は、仏像を譲(ゆず)り受けた日とし、
明治三四年一〇月九日としている。
一九一〇明治四三、一〇、一九宗祖親鸞(しんらん)上人の六五〇回忌を厳修した。
記念事業として、書院一九坪五合、
その建築費七二三円、総工費九〇〇円。
明治四四年五月十日、竣工届出をした。
一九一七大正六、五、一鐘桜堂を建立した。建坪七、五坪。
梵鐘は京都の小堀仏具店で製作したもので、重さは一五〇貫であった。
総工費一五〇〇円。
一九二四大正一三、五、一〇開基寺西大宣住職が逝去した。享年六十五才。
一九二四大正一三、一〇、一〇庫裡(くり)を建立した。屋根亜鉛メッキ鋼板、建坪五五坪。
総工費四、五〇〇円。
この時書院の屋根もトタンぶきにした。
一九三四昭和九、三、二一一五号颱風により、鐘桜堂が倒壊した。
一九三七昭和一二、五、九本堂再建許可願を、函館要塞司令部、本山、道庁に提出した。
五月一八日、要塞司令部より許可
一一月二二日、本山より許可
一二月一日、道庁より許可
一九三八昭和一三、三、三一本堂の竣工届を提出した。
建坪七四坪、総工費二三、〇〇〇円。
昭和一一年の秋鰮豊漁によって着工したが、予算額の寄附金が集らず、
三、〇〇〇円の不足金を生じた。
この不足金は、昭和一四年の豊漁によって整理した。
この後、附属建物の改築工事を予定していたが、
北支事変から大東亜戦争へと発展し一切の工事が中止になった。
一九五二昭和二七、一〇、一〇後堂から書院の廊下、便所、手洗建築した。
建坪六、五坪、総工費一七二、〇〇〇円。
一九六一昭和三六、一二、二八宗祖大師の七〇〇回忌を厳修した。
記念事業として、唐狭間(からざま)と巻障子を入れた。
寄進者は次の通りである。
①唐狭間
 本間(ほんま)、三枚、一九、五〇〇〇円村田留太郎同よしゑ
 余間(よま)、四枚、一枚五五、〇〇〇円のもの
 大橋弘一枚
 丹羽和八一枚
 加藤基太郎一枚
 吉田兼松一枚
②巻障子(昭和三九、一〇、一四)
 中尊前、一間六〇、〇〇〇円宇美藤太郎
 中尊以外四四〇、〇〇〇円門徒一同