この時代は明治十五年(一八八二)二月、開拓使を廃止し、同時に本州府県の例に倣って、函館、札幌、根室の三県に区分し行政を実施し、明治十八年(一八八五)三県制を廃止するまでの僅か三年間である。
三県制が僅か三ケ年で廃止になった経緯は、金子堅太郎が政府の命により、明治十八年の七月から十月にかけて、北海道の拓殖状況を仔細(しさい)に巡察調査した結果、開拓使時代から三県時代にかけての拓殖や行政の誤りを痛烈に非難し指摘した建白書を政府に提出した。
政府はその建白書によって検討の結果、三県制は北海道の実情に即さないという結論が出、この年直ちに三県制を廃止して北海道庁が設置されたのである。
開拓使時代の十四年間は、道路の改修、開削に主力を注いだが、三県時代になっても、馬車の通れる道路は少なく、依然として踏み分け道を幾分広くした程度であったので、三県時代も道路の改修、開削を行政の重点とした。
県の首長を本州の県と同じく、県令と称した。三県の県令は、函館県が調所広、札幌県は湯地定基、根室県は時任為基であった。
函館県では官営の駅逓を自由営業とした。渡船の制度はそのままとし従来通りの取扱いを継続した。当時函館県内の渡船場は三十三ヶ所であった。
明治になってから、北海道くらい行政制度が変った府県はない。これは地域が広大で、人口が稀薄な上に気候が寒冷なため拓地殖民が他府県より困難であったことを物語るものであろう。
三県制は北海道の実情に合わなかったということと、期間が短かかったため、殆んど見るべき実績がなかった。